高校受験が上手くいきますように、とお祈りしてくれた人がいた。その人はインターネットで知り合った、ずいぶん年上の友人だった。
「山手線の神様にお祈りしておきますね」
私はその日に試験を受けて、志望校に無事合格した。
普段は神様を信じていないけど、今日の、山手線の神様は別だ
共通の趣味は読書だった。好きな本が共通していたことをきっかけに、お互いの文章を読んだりコメントをしあったりしていた。私は友人にずいぶん懐いていたし、友人も私のことをかわいがってくれていたと思う。
けれどその交流は、ある日とつぜんプツンと切れてしまった。単純な話だ。私がインターネットを遠ざけた。
それから時間がたって、私は大学入試に向かっていた。
地元から東京へ。JRの駅内で標識に気付く。
山手線ってここにあったのか。
私は普段、神様がいると思いながら生活していない。けれど、今日の、山手線の神様は別だ。
もう数年は言葉を交わしていない友人がくれたジンクスにのっとって、私は祈る。今日の入試が上手くいきますように。どうか合格できますように。
結果は合格。私の努力と、ちょっぴり山手線の神様のおかげだ。
お礼参りもかかさなかった。ホームで電車を待つ間、心の中で語り掛ける。
山手線の神様、無事に志望校に合格できました。ありがとうございました。
ネットですれ違い、疎遠になった友人にお礼は言えずじまいだけど
山手線の神様にお礼は言えても、友人にお礼は言えずじまいだ。疎遠になって以降、ときおり思い出すだけで、連絡をとりあうようなことはない。インターネットで一瞬すれ違っただけで、私達は、特別友達でもなかったのではないかとさえ思ってしまう。
交流していたときから何年もたってしまって、相手を思い出しているのは私だけなのではないだろうかと思う。友人が積み重ねた時間の底で眠る私の記憶が掘り起こされることはあったのだろうか、そしてこれからあるのだろうか。
友人は同じ名前で、同じURLで、ブログを書いているらしい。私は何度ハンドルネームを変えただろうか。
もし友人とまた話すことができたなら、まずは受験のお礼を言いたい。応援のおかげで頑張れましたよ、と。そして、2回目の受験も、山手線の神様のおかげで上手くいきました。
お礼を言ったあとはなにも話すことがない。私はもうあのとき好きだった小説の作家を追いかけていない。ひとりよがりなことしか話せないだろう。
でもきっと友人は快活に許してくれるのだろう、年上ぶって。
入試の日、山手線のホームで祈っている風な人がいたら、それは私だ
思えば、私が知り合ったときの友人よりも、私は年上になってしまった。
友人がらしく振る舞って、かっこいい年上の友人を演じてくれていたのだろうことは想像にかたくない。大人が大人らしく見えるのは、そう演じているからだというのを知ったのはここ最近だ。
今の私は山手線を当たり前に利用できるようになった。もしかしたら、友人とすれ違っているかもしれない。
でも私は友人の顔を知らない。友人に気が付くことができない。
ただ、入試の日、山手線のホームで祈っている風な人がいたら、それは私だ。
あなたがしてくれたように私も、年下の友人のために、山手線の神様に祈っている。神様のことは信じなくても、あなたのことは今でも信じている。