プロジェクトのためにアフターピルを飲んだ。
婦人科での会計は、9,900円。
1万円払ってセックスしたんだなあと思うと、苦笑いがこみ上げてきた。
私は結婚3年目の28歳。世帯年収は1,200万円(ひとり頭600万)。
もちろん、セックスの相手は夫だ。
これ以上ないほど出産に適した状況で、それでもなお時期を選ぼうというのだから、現代人の極みにいるな……と我ながら思う。
あっという間に終わった診療。子どもは2年後にしようと決めていて
新宿の婦人科は夜21時までで、アフターピルの相談は予約なしでもOK。仕事終わりに向かうと、女性のみのフロアで速やかに個室に案内され、女性の先生に3種類の薬を提示された。
真ん中の7,500円と書いてあるジェネリックのものを指すと、先生は頷き、会計時に薬を渡された。
初診料は1,500円。税込み9,900円を支払いながら、高い……と憤りのような気持ちを抱く。
比較的高収入の自覚がある私でもこう思うのだから、普通の若い女性にとってはもっと負担だろう。
とはいえ、病院に足を踏み入れてから、全ては30分も掛からずに終わった。
一粒の薬とともに夜の新宿に放流された私は、アフターピルを飲むに至った経緯について、何も聞かれなかったな、と何となく思った。
そういえば、結婚指輪もしたままだった。左手の薬指で、夜のネオンを弾いて銀色が鈍く光っていた。
私と夫の仕事のタイミングを考えて、子どもは2年後にしよう、と話をしていた。
夫は妊娠中の私をサポートできるように、自分の仕事が落ち着くタイミングがいいと言ってくれ、私は2年に渡る長期プロジェクトのリーダーを任されるチャンスが目の前にあった。
それぞれの希望を考慮すると、2年後が最適解だった。
そのとき私は30歳。夫は32歳。現代の基準で考えれば、別に遅いわけではない、と思う。
考えて飲むことを決めたアフターピルも、仕事の状況は大きく変わり
私はやっと一人立ちできるようになった仕事が楽しくて仕方がなかったし、子どもを産んで復帰した後のことを考えると、ある程度大きな仕事の実績を積んでおきたかった。できる限りスキルを伸ばしておきたかった。
……そう、考えていたのだ。
小さな白い錠剤を飲み下すと、普段通りの私だった。
妊娠への懸念が拭われた、いつもの私。
これからはちゃんと体温をつけて、セックスのタイミングを考慮しよう、と思った。
気になっていた副作用も何もなく、寝て起きるといつもより元気なくらいだったから、翌日は通常通り出社した。
職場では、尊敬する課長が顔色悪く仕事をしていた。
数ヶ月の間に、多くのことが変わった。課長と固い絆で結ばれていた副部長が異動し、部長が交代した。
金融機関にありがちなことだが、トップが変わると仕事のやりやすさが全く変わってしまう。
あいにく、新しい部長と課長のそりが悪く、追い込まれた課長は荒れた言動が目立つようになり、私が感じていた仕事の楽しさも半減した。
大切に思っていたプロジェクトに対しても、あまりモチベーションが湧かなくなった。
私が感じていた仕事の楽しさややる気は、一緒に働く人に依存していたんだな、ということが分かった出来事だった。
それでも、課長は私のことを頼ってくれている。ライフプランについても親身になって聞いてくれて、部下として大事に育ててきてくれた。
アフターピルを飲んだのは、プロジェクトのためじゃなく自分のため
そして何よりも、自分の心が、妊娠するのは今じゃない、と言っていた。
赤ちゃんを大切に思うからこそ、心から望むタイミングで産みたい。
だから、私はアフターピルを飲んだ。
プロジェクトのためというより、自分のためだ。
これから2年間、プロジェクトを走り切れるか分からないし、仕事に価値を感じる気持ちがゼロになるかもしれない。職場の人間関係もどんどん変わっていくだろう。
子どもを産むのか、家庭中心に生活するのか、転職するのか、この会社に居続けるのか。
全ては、自分の心の赴くままに決めたいと思う。