もし今あなたに会えたなら、「ハタチになったよ」と、ひとこと言って、いつものようにお小遣いが欲しいとねだるだろう。

「勉強ができるのは当たり前じゃない」と繰り返し言う祖母との思い出

父方の祖母が亡くなったのは、昨年の夏、東京オリンピックでサッカー日本代表が決勝進出をかけて戦っていた、体感温度も心も熱い夜のことだった。
20歳という年は、幼い頃の記憶はおろか、10年前のことですらもはっきりと記憶できていないものなのだと、ハタチになってようやくわかる。

記憶に残っている数少ない祖母との思い出のひとつに、私に何度も繰り返し言った言葉がある。何年生であるかという質問の後に「勉強ができるのは当たり前じゃないとよ、私のころは学校も行かれんやったんやけん」と。
この言葉は、戦争真っ只中の時代から生きてきた、祖母だからこその言葉だった。そして、私の曽祖父にあたる祖母の父は戦死していると伝え聞いている。
そんな過去を持つ祖母が亡くなったと聞いた時、私から涙は流れなかった。
どうしてだろう、理由もわからなかった。もう随分と長い間、入院していたからだろうか、もう長くないと思っていたからだろうか、私にはわからなかった。

私がハタチになるまでの20年は、祖母が亡くなるまでの20年に

一夜明け葬儀の日、受付の仕事を担っていた私は参列者の顔を見て、知らない人ばかりだと思った。しかし、その誰もが私を見て、「もしかしてお孫さん?よく自慢しとったよ、寂しいね」と言った。
祖母のことを姉さんと呼ぶその人たちは、花をたむけて、涙を流していた。そして、孫の私はもう一度、今度は多くの花で綺麗になった祖母の顔を見た。
「可愛がってくれて、ありがとう」
もうその言葉は届かないけれど、顔を見て、そう思った。祖母の顔がはっきりと見えなくなっていく、その時、私は泣いていた。私はひとり、受付に戻り人目を避けて肩を震わせて泣き続けた。

過酷な幼少期、少女時代を過ごして、晩年、人生の灯火が消えるまでの最後の20年、孫の私がいる、ということは、祖母にとってどんなことだったんだろうか。
孫である私のことをどんな存在だと思ってくれていたのだろう、私が生まれると分かった時、生まれた時どんな気持ちだったんだろう、どれほどに私を愛してくれていたのだろうと。
私がハタチになるまでの20年は、結果として、祖母が亡くなるまでの20年となった。

最後に2人で買い物した日のことを、生きていた祖母を、忘れはしない

ハタチ。ハタチになる年に10代に別れを告げ、両親に感謝を伝え、真の大人への一歩を踏み出していると自覚する。
私はそれらに加えて、祖母との別れも経験した。初めての親族との永遠の別れだった。
時の流れに押されるようにして、私は新しい場所に立ったような気分になった。新しい未来へ歩みを進める中でこの20年を、特別な20年を忘れないでほしい、これからの未来を生きていく力に変えて欲しいとこの年が、そして、祖母が願っているように感じる。

私と祖母の最後の思い出は、家からほど近い刺身屋に2人で歩いて買いに行ったことだ。
小さな海街で、人も車も少ないこと。まだ暑さの残る時期で、日差しが眩しかったこと、腰の曲がった祖母が歩行器を使って私の斜め前を歩いていたこと。
その日の太陽も、声も、顔も。そして、生きていた祖母を忘れはしない。

ねぇ、ばあば、もし今あなたに会えたなら、私を可愛がってくれて、大切にしてくれてありがとうと伝えたい。
どれくらい想ってくれていたのか、愛してくれていたのか、答えは出ないままきっと、これらも私の人生は続いていく。その人生の先で孫ができることがあるならば、その時にこの気持ちを、祖母との時間を私は思い出す。人生のその日まで、もう会えないあなたが見守る空の下で、私は今日を生きていく。
祖母を想い、お仏壇にあげるお線香の煙の行く先が、あなたの見守る私の明日へとつながっていると信じて。