新型コロナウィルスが蔓延してから、休日が様変わりした。
就職のために、港町からビル群の見える都会に引っ越して1年。新入社員だった私は、仕事終わりに先輩たちと飲みにいき、そこで過去の苦労を聞くことが楽しみであり、休日になれば様々な業種や年齢の人と話ができる場所に足を運んでいた。
そうすることが自分にとって「充実」している日々であると信じていたからだ。

新型コロナウィルスが流行し、私の「充実」はいともたやすく奪われた

しかし、このような生活をおくるようになってから一年がたとうとする頃、新型コロナウィルスが流行しはじめた。私は医療機関で勤めているため、世間でお達しがくだる少し前から大人数での会食を控えるようにと言われるようになった。もちろん仕事終わりの飲み会もなくなった。
大勢の他人と話をすることが「充実」だと信じていた私は、その「充実」をいともたやすく奪われてしまった。田舎を飛び出し、一人暮らしをはじめた私には就業時間以降や休日は日常的な話をする相手もいなくなってしまった。
そうこうしているうちに、「緊急事態宣言」が発表された。本格的に外出を控えるように発表されて、私は一人で自宅にいた。
自宅を見回してみた。もともと物件選びの際には、「一人暮らしをしたら、いろいろなところに出歩くぞ!」と意気込んであえて狭い部屋を選び、家賃をおさえてその分を趣味の旅行や舞台鑑賞にあてられるようにと考えていた。そのため居心地のよさは重視していなかった。

やりたいことを自分のこころに聴いて自分をもてなす「セルフデート」

しかし、そんなことは言っていられない。
これまで家での時間は人と会うための準備時間だった。外で時間とお金を使うために一人でいるときはとにかく「はやい・やすい」生活を自然とおくっていた。
しかし、家で一人での休日を重ねていくにつれ、私は自分自身の本当の好きなことや「いま」やりたいことに耳を傾けるようになっていた。
遮光カーテン2級(朝起きられない人間なので1級はやめた)からさす光で目をさまし、洗濯をはじめる。湯を沸かし、一日のはじめの一杯はかつて旅行先で購入したドリップコーヒーを丁寧にいれる。朝ごはんかわりの焼き菓子を出したら録画していたトークバラエティをみる。洗濯終了の合図がなったら晴れわたった外に干して掃除機をかけ、水まわりを掃除する。
やるべきことが完了したら、あとは気の向くままに自分のやりたいことをやる。気になっていた映画を見るでもよいし、撮りためていたドラマの一気見でもよい。積読本の解消もよいし、あるいはもう一度寝てしまう日もある。

ここで私が大切にしているのは、そのとき自分がやりたいことを自分のこころに、からだに耳を傾けることだ。
「そんなふうに時間を使っちゃって大丈夫かな」
「ほかの人はもっといろんなことをしているんだろうな」
そんなことを考えてしまうこともあった。しかし、今気にするべきは見えない他者の声ではない。一番近くにいながら一番無視をしてしまいがちな自分自身の声を聴くことが重要であると、気づくことができた。
これは自分で自分をもてなし、満足させるために自分自身とデートをすること、名付けるならば“セルフデート”である。

一人だからこそ好きな服を着て、誰かの好みを気にせずに映画鑑賞

“セルフおうちデート”を重ねていた私だったが、世間がコロナウィルスと付き合いだしてから感染対策に留意しつつ外出をすることが可能になったころ、私は「セルフお外デート」を決め込むこととした。
場所は、換気が十分にされている映画館だ。そういえば見てみたい映画があるんだった、人と映画に行くときは「これ、この人興味あるかな?」とか「字幕と吹き替え、どっちがいいって言ったらいいだろう?」「フードとか頼むタイプの人なのかな」と悩む必要がない。ただ自分を満足させられるように選択を繰り返すだけだ。
私は吹き替え一択。今日はチョコレートチュロスに期間限定のホットチョコレートを一緒に頼んで甘&甘の組み合わせにしたい気分だ。なんでだろう、いつもだったらブラックコーヒーを選ぶとこなのに。そんなことを思いながら自分で自分をもてなす。

服もそうだ。これまでだったら一人ででかけるときは誰かに見られる意識がないから適当に、メイクなんてしないこともあった。
しかし、一人だからこそ好きな服を着る。こないだ買った新しいアイシャドウをおろしちゃおうかな。

こうして自分で自分をもてなしていると、特別なことをしていなくても満たされていく感覚をたしかに感じることができる。これまでは焦るように求めていた「充実」をからだの内側から感じ取ることができるようになった。
さて、今週の仕事も終わり、待ちに待った休日だ。今週もまた私は私をもてなすための“セルフデート”をはじめるとする。