「もし」という言葉は不思議な言葉だ。
この言葉がつく時、あくまで実現しないことが大前提になる。だから、自分が現実世界では「絶対に(もしくは二度と)」会えない相手を探す作業は思った以上に難しそうに思えた。これは時間がかかるぞ……と身構えたのだが、案外早く思い当たる人物がいた。
過去の私だ。正確に言うと、社会人になるまでの私。今の私ではもう会えない、昔の私。
今の私が嫌いなのかと言われると別にそういう訳ではない。好きなところもいっぱいある。でも、少なくとも笑顔で多くの理不尽(主にジェンダー面において)を受け入れるようになってしまった今の姿は、自分でも大っ嫌いだ。そして、そんな今の私と違い、理不尽を真正面からはねのけていたのが過去の私である。
「女だから」と言われる違和感をいつの間にか受け流していた
私は比較的九州の中でも男尊女卑が根強い地域に生まれた。そんな地域の風土をものともせずのびのびと育った私は、幼少期から戦隊ヒーローが大好きで、負けず嫌いな女の子だった。
もちろん、土地が土地なので、何か集まりがあるたびに親戚から「あなたはしっかりしているから旦那さんを支えてあげられるね」とか、「女の子だし、旦那さんのシャツのボタンが取れた時のために裁縫のお手伝いをしといたほうが良いわよ」といったありがたいようで全然ありがたくないお言葉をもらった。
でも、その時からうちの親はやんわりとではあったがたしなめてくれていたし、何よりも言われる本人が幼稚園児だったため、「ま、子どもにはまだ早いか!」とそれ以上はうるさく言われずに済んでいた。
不穏な気配がでてきたのは小学校に上がってからである。自由な性格は変わらなかったのだが、段々私は違和感を覚えるようになっていった。
ヒーローごっこをしようとすると「凛ちゃんは女の子だからピンクレンジャーしかやっちゃだめだよ!」と言われる。何かあると「女だから」「女のくせに」と言われることも増えた。しかも学年が上がるにつれて頻度が増していく(ような気もする)。
要するに、日常生活の中で「いや、それ女関係なくね!?」と言い返すことが多くなっていったのである。
そして、そんな場面で両親のように守ってくれる存在は学校にはいなかった。こうして、私は自分で違和感に立ち向かっていく経験を積むことになる。
ただ、この時の私は自分でいうのもなんだが、とにかくかっこよくて自分でも惚れるぐらい最高だった。偏見に満ちた言葉をかけられても、いくら面と向かって失礼極まりない言葉を吐かれても、絶対に屈しなかった。
相手に違和感を覚えたらすぐ「えー、私はそうは思わないんだけど~」とあくまで表面上は穏やかに、でも「私はそうは思わない」という純然たる意志を相手に伝えられていた。
変わってしまったのはいつからだろう。かっこよかったはずの私は、いつの間にか「今の嫌な話し方だな」と思っても、「うっわ、めっちゃむかつく!」と思っても、それを否定すらせず受け流してしまうようになっていた。
なぜこうなってしまったんだろう?なぜ、「女」というだけでもやもやを抱える日々を、反論することすらままならない毎日を送ることになってしまったんだろう?
過去の私だったらそんなこと許さなかったはず。でも、じゃあ過去の私はどこに行ってしまったのだろうか。あの頃よりも大人になったはずの私は、途方にくれて幼かった自分を探し求める。そして、困ったことにまだ私は昔に戻れないままだ。
過去の私に失望されないように。再会のときを思って頑張る
「もし」という言葉は不思議な言葉だ。この言葉がつく時、あくまで実現しないことが大前提になる。だから、自分が現実世界では「絶対に(もしくは二度と)」会えない相手を探す。
でも、本当にそうなのだろうか?過去の私は会えないわけじゃない。昔のようになれないわけでもない。そんなことは分かってる。
でも、それでも過去の私のようにすぐには戻れない。過去のようになるには人に言い返す勇気がいるし、何よりも仕事のやりやすさで言えば適当に流す方が圧倒的に楽なのだ。でも、今の私をみたら過去の自分は失望するし呆れるだろう。「あんた、ほんと何やってんの!?」と。
だから、私はちょっとずつ過去の自分に戻れるように頑張ってみることにした。もちろん、いきなり過去の私に会う(昔の私のようになる)のはちょっと厳しそうだから、負けず嫌いな私はまず「実現しない」という大前提を覆すために「えー、私はそうは思わないんだけど~」と口ずさむ。
早く再会できると良いね、私。