気に食わないことをしたら叩かれる。幼少期、母は脅威だった

小さい頃、母は脅威だった。
はじめての育児にノイローゼ気味だった母は、私が何か悪さをすると必ず手が出ていた。
母の気に食わないことをすると叩かれる。
幼心にそう刷り込まれていた私は当時、同居していた祖父母にべったりだった。育児に責任のない祖父母は私にベタベタに甘く、私も痛いことをする母よりも祖父母に懐いていた。
ブラック企業勤めで育児に非協力的な夫、昭和の価値観で家事や育児の理想を押し付ける義両親。
今考えれば、親元を離れ家族とはいえ、赤の他人と生活を共にすることになり、その上、手のかかる子供の育児をすることになった母の心労は、いかほどだったか。しかし当時の私は、まだ小学校にも上がっていない幼児だった。
祖母が話す母への辛辣な評価をそういうものだと素直に受け止め、私は母への悪感情を募らせる様になっていった。
家族の中でただ一人、血の繋がった肉親である私にまで避けられていた母の内心は察するに余りある。
幼い頃の私と母の間には、薄いけれどもはっきりとした壁があった。
そんな関係が少しばかり変わったのは、とある事件がきっかけだった。

事実確認もないまま「いじめの主犯」として先生から説教をうけた

小学生の頃、私の気に入らないことや怒りへの発露は暴力だった。
それは幼い頃に受けた体験が元かもしれないが、何か気に入らないことがあると、考えるより先に手が出てしまう。
第二次性徴に入りかけで、男子よりも体格の良かった私は、さすがに女の子には手をあげないものの、クラスの男子には日頃からキックやパンチをお見舞いしていた。
口でも力でも勝てない私に、クラスの男子達は相当うっぷんが溜まっていたのだろう。

私は同じ頃、クラスの中で行われていたいじめの主犯グループの一人にされてしまった。
当時クラスでは、一人の女の子が陰口を叩かれるなどのいじめを受けていた。
私も一、二度周りの空気に呑まれて揶揄ったことはあるが、その子とはむしろ仲の良い友人として付き合っていた。
全く身に覚えがないわけでもないが、主犯と呼ばれるほど手酷いことをしている訳でもない。
私は首を捻るばかりだったが、折悪く当時の私のクラスの担任は、それまで2年間我がクラスを見続けた女性教諭が産休に入り、教育実習を終えたばかりのひよっこ先生に代わったばかりだった。

ひよっこ先生は、クラスの男子の大半がコイツが主犯だと言い張れば、日々男子と喧嘩に明け暮れる私の心象がよろしくなかったのも原因の一つだろうが、本人達にろくな事実確認をする事もなく、学年主任と共に私と数人の生徒を会議室に引っ張って行った。

普段入った事もない会議室には、校長先生が待っていた。
校長先生なんて、始業式や終業式の時にしか見たことがない。
めったにない体験の連続に、普段なら目をキラキラさせてはしゃいだだろうが、その時はそんな事も言っていられなかった。
面識だってほとんどない校長は、とても怒っている様だった。

一列に床に並んで座らされた私達は『自分たちが何で怒られているかわかるか!』と一括する校長に、1時間ほどそのままの体制でお説教をされた。
要約すれば『どんな些細なことでも、自分がされて嫌なことを相手にするのは良くない』ということをこんこんと校長は説いていた。
しかし、当時の私はいわれのないお説教が悔しいやら、フローリングにつけたお尻が冷たいやらで、まともに話なんて聞いていなかった。

私を信じて一緒に泣いてくれた母。母との関係が少しずつ変わっていく

結局その後も色々あって、帰宅する頃には家の周りはだいぶ暗くなっていた。
悔しくて納得いかない気持ちのまま帰宅すると、母が玄関で待っていた。
後から聞いたら、学校からお説教の件で帰宅が遅くなる旨の連絡が既に自宅に入っていたらしい。
そんなこと知る由もない私は、それでも母のただならぬ雰囲気に、あれだけ怒られてまた怒られるのか、と身構えた。
近づいてくる母に、殴られる!と身体を硬くしたその瞬間、何か暖かいものに包まれた。
よく分からないがいつまで経っても殴られる気配がないので目を開けると、そこには私を抱きしめる母がいた。
しかも、小さな嗚咽まで聞こえてくる。

母は、泣いていた。

それまで、大人が、母が泣くところなんて一度も見たことがなかった私は、大いに狼狽えた。
狼狽えて何もできずに、固まっていた。
動けない私に、母は鼻をすすりながらこう言った。
「あなたが暴力を振るってしまうのは、私のせいかもしれない。それでも、何の理由もなく暴力を振るうような子だとは思えない。もし本当に暴力を振るったなら反省しないといけないし、違うなら違うってしっかり言わないと……」

あなたが悪い子だと思われちゃう……。
母のその言葉に、私は動揺した。
この人は、私が悪くないと信じてくれているのだ。
事実確認もせずに頭ごなしに叱ってきた先生達の顔がフラッシュバックして、私は一緒になって大声で泣いた。

それまで私は、母は形式的に母親をしているだけなのではないかと、どこかで思っていた。
私のことなんてどうでもよくて、産まれてしまったから大人になるまでは養育しているのではないか、と。
しかしこの日、私のために泣いてくれた母を見て、どうやらそうでもないらしい。母は私を子供として愛してくれているのでは?と思うようになった。

その後も、小学校を卒業するまで例の女の子とは仲の良い友達として過ごしたし、学級崩壊を起こした先生は割と早い段階で他の学校に移っていった。
男子との仲の悪さもそのままだったが、ただ一つ母との関係は少しづつだけれど良くなっていった。

けっして良い出来事ではなかった。
それでもあれは、愛が私を変えたこと、だと思う。