「孤独」ではなく「孤高」。自分の意志を貫く同級生に感銘を受けた
学生時代は、ひとりになることが何よりも怖かった。学校という小さなコミュニティで、たまたま同じ年、同じ場所に生まれただけの人たちと和を乱さないように生きることは、振り返るととても辛かった。
当たり前だが、価値観や好みは人によって違うものだ。私は違和感を感じながら興味のないものにもとりあえず「かわいい〜」と言っていた気がする。今思えば、自他ともに認める変わり者の私が、当時上手くやれていたかも、いささか疑問が残る。それでも周りから浮かないように自分を押さえ付けることにあの頃は必死だった。
さて高校に進学しても相変わらず、グループに所属し「群れ」を作り、ひとまず安心していた。そんなとき違う学区から進学してしてきた同級生に出会い、衝撃を受けた。
彼女は、シアトル発祥のコーヒーショップのタンブラーを片手に、当時周りで誰も持っていなかった米国製スマートフォンを操っていたのだ。
彼女のことを「個性的過ぎる」という声も中にはあったが、私は素直に「かっこいい!」と思った。最先端の都会的なライフスタイルももちろんのことだが、この片田舎で周りにどう思われようが、自分の意志を貫く姿を含めてかっこいいと感じた。
クラスでも特別どこかにグループに属しているわけではなく、ギャルな子、静かな子、部活動命の子、みんなと別け隔てなく話す。ひとりで過ごしているときもよく見かけたが、それは「孤独」ではなく「孤高」という言葉が相応しかった。
ひとりぼっちは可哀想な人じゃない。自分の気持ちに素直に向き合う
それから私は、価値観が違う人たちとは無理をしてまでつるまなくなった。
これは決して、自分と異なる価値観の人を否定する訳ではない。対立する価値観を真っ向からぶつけ合ったとしても、どちらかが遠慮したとしても居心地が悪い。お互い適度な距離感を保つことで相手への理解が深まり、自分の視野も広げることができるからだ。
ひとりでお弁当を食べるいわゆる「ぼっち飯」もしたことがある。始めはケータイとにらめっこばかりだったが、徐々に色んな人が日替りで話し掛けてくれるようになり、あまり寂しさは感じなかった。むしろ自分の知らない分野の話を聞くことができて楽しかった。
私は友人と呼べる人は決して多くないが、中学、高校、大学時代とそれぞれ仲が良いと言える友人は数人ずついる。みんな大切な友人だ。遠方に住んでいるが、節目には連絡を取り合う仲だ。
かつては知り合いのSNSを見て、自分の友人の少なさや大人数でワイワイ盛り上がるイベントに参加できないことに、劣等感を覚えたこともあった。
今の私は変わらず「ひとり」で過ごすことが多い。趣味の神社仏閣巡りや海外旅行へもひとりで行く。行きたいと思ったら、ひとりでどこへでも行く。
でもそれは決して「可哀想な人」というニュアンスが含まれている「ひとりぼっち」とは違う。自分の取捨選択に自信を持っているからだ。
自分の気持ちと素直に向き合い、正直に動いている今の生き方の方がしっくりきている。