高校3年生の頃。毎日、「先生」への気持ちを必死に抑えこんでいた

高校3年生の時、私は人を好きになった。
人を好きになるって、やっかいだ。苦しい。高校生が先生に恋をする、よく聞くドラマや映画の話。だけど、そんな風に考えていた私も、ある先生を好きになった。
尊敬する先生だった人がいつの間にか、私にとって先生という存在だけではなくなってしまった。心臓のドキドキする感覚とともに、どうしよう、と思った。

私は先生との、年の差を数えた。20歳差だ。遠く感じた。しかも、先生には家族もいる。そんなことを考えてしまっている自分に気が付き、嫌悪する。
この気持ち、何だろう。この気持ち、すごく邪魔だ。ただ、抱きしめてほしかった。自分の中に湧き上がる気持ちに混乱して、震えている自分を。

この恋は映画のようなキラキラしたものでは全然ない。そこには、自分の気持ちを必死に抑え込もうとしている地味な生徒がいた。毎日毎日、その繰り返し。行動を起こすことなど、少しも考えていない。
ただ、自分の気持ちを感じるたび、苦しさに耐えるばかりだった。

「苦しかったね、やっと終わったね」。卒業式まで抱え続けた恋心

人を好きになることは、幸せよりも苦しみの方が大きいのだろうか。私は自分を嫌悪したし、責めたかった。いつも先生の姿を探している自分に気が付いたとき、本当に自分は先生のことが好きなんだなと驚いてしまった。
以前は普通に話すことができたのに、気持ちに気づかれたくなくて、ちゃんと顔を見ることもできない。好きになったことに、罪悪感を感じた。
だけど、私は自分を少しでも救いたくて、自分の気持ちを認めてあげることを考えた。「人を好きになった自分を受け入れよう」と心の中で念じた。

しかし、そんな風に決意をしても、現実は簡単には変わらない。そして、時間が過ぎるのを待っていたように卒業式を迎えた。
先生はもちろんそこにいたけれど、やっぱり顔をみることはできなかった。苦しみに耐えるような形で終えた、私の高校生活。正直、苦しかった。これですべて終わったのだと、解放された気持ちと切ない気持ちが入り混じる。
人知れず、誰にも言わないでいた私の恋心。一人で抱えた気持ち。
それらは表には現れることはなかったけれど、確かにそこにあった。毎日書き続けた日記のなかで私は自分に話しかけた。
「苦しかったね、やっと終わったね」

人を好きになるのは自然なことだから。思い出とともに生きていく

人を好きになるのは自然なことだ。誰かを好きになった自分を責めなくてもいい。たとえそれが、叶えられなくても。
恋は、相手を傷つけたくない、そんな優しい気持ちを抱かせるものだった。先生と生徒。教える者と学ぶ者。それだけであるはずだ。先生を傷つけたくない。だから、自分は正しかったと思う。
だけど、そんな役割を背負いながらも私たちは皆、人間だ。ちゃんと心を持っている。だから、役職に縛られず人間として豊かに関われたらいいのに、そんなことを何度も考えた。

一方でこんなことも考えた。私が気持ちを悟られたくないという思いから相手を遠ざけてしまったことは、逆に相手を傷つけてしまわなかったかということだ。
自意識過剰かもしれない。だけど、好きになった人に幸せでいてほしいという温かい気持ちを、素直に表現することができなかった「もどかしさ」は、今も残り続けている。
この記憶はきっと忘れることはない。人を好きになる喜びと痛みと共に、思い出されると思う。

この出来事を通して、何が成し遂げられただろう。苦しいことばかりだったじゃないか。
だけど、それが無意味なことだったかと考えたら、そうではないと今なら思える。
形にならなかった思いは、私が自分と向き合う機会を与えた。人を好きになったことで苦しんだこと。この記憶はいつか宝物のように、私の一部になって私を励ましてくれると思う。