いま一番欲しいものは「素直になる」ことだ。

私は2022年1月に成人式を迎えた。去年の年末からずっと、かつて楽しい時期を過ごした仲間に再会できることをワクワクし、ドキドキしていた。

成人式の日、あの人はいるのか、と混みあった会場内を無意識に見渡す

そのドキドキは少なからずも、あの人と会えるかも、という緊張と期待が含まれていた。あの人はどこで何をしているかほとんど情報が無かった。正直、成人式に来ないような性格だと思っていたので、会える気がする40%、会えない気がする60%の入り混じった淡い期待であった。

年が明け、すぐに成人式の日がやってきて、式は無事に終わった。晴れ着に腕を通すことが嬉しくて、晴れ晴れしい気持ちだった。

そして、あの人はいるのか、と混みあった会場内を無意識に見渡す。自分の中では探してないつもりであった。しかし、ついつい一人一人の顔を見て、探してしまう。成人式は久しぶりに見かける人や、このご時世マスクをしているということもあって、自分の中に記憶している当時の姿と、現在の姿が乖離していることが多い。だから、頼りない証拠で探し物をするようなもの。なかなか見つからない。探しているつもりはないけれど。

しかし、私のセンサーが反応した。そこの席にいるのはあの人かも、と。最初は外見が違いすぎて、信じられなかったけど、あの人だ。その瞬間「会いたい!」と気持ちが高ぶった。でも、会う勇気が無かった。

あの時素直に会っていれば、後悔に後悔を重ねることはなかった

あの人とは小学校から中学校までの同級生で、ずっと好きだった人だ。

彼を見かけたときには、高揚した自分と、冷静になれと命令する自分がせめぎあっていた。こういう時、私は冷静な自分が前にズンズン出てくる。一気に感情にブレーキをかけて、客観的になる自分だ。
結局すぐ近くにいるのに、会えなかった。というより、自分の判断で会わなかった。少々、重たい気持ちを抱えながらも、この後に控えている同窓会のために帰宅した。

彼は同窓会に参加しないことはすでに知っていた。だから、私は会いたかったなあ、でも会う勇気はなかったなあ、という中途半端な気持ちのまま同窓会に参加した。
だが、この同窓会で更に打ちのめされることになった。

「『一緒に写真撮りたかった』って言ってたよ。伝言しとくわ」と、彼の友人が悪気なくポツリと言ったのだ。
「え、何それ。だったら、自分から会いに行けばよかったじゃん」と心の中で、思わず言ってしまった。

その時から、会いたいという気持ちを優先させて行動できなかったことを後悔した。つまり「素直になる」というシンプルなことができなくて、これまでにないほど悔いた。心のままに素直に行動する、心のままに素直に言葉にすることが自分にとって大きな塊になった。
いつまでも、後悔が付きまとった。毎晩、眠りにつこうとしても後悔が頭の中でぐるぐる巡る。悶々と考え続けて、眠りは遠のく。ああしていれば、こうしていれば。タラレバばかりが思いつく。

SNSで見つけた彼のアカウント。手汗脇汗をかきながらメールを送る

そんな思いを抱えながら、数日が過ぎたある日。SNSで知人とのつながりが薄い私だが、唯一昔から仲良しの友人のSNSのフォロワーを見ていたら、なんと彼のアカウントが。この時もまた「会いたい!」と一瞬にして気持ちが高まったが、再び冷静な自分が出てきた。

あの時と同じだ。ここでもう一度冷静な自分に従ったら、後悔も引きずったままだ。しかもこれから一生彼に会うことはできなくなるかも、と思った。そして手汗脇汗かきながら、彼にダイレクトメールを送った。

結果的に言うと、彼に再会することができた。でも、成人式と同窓会で私に降り注いだ後悔は今でも忘れることができない。「素直になっていれば、」とあの時行動することで生まれた別の結果を想像して、いつも後悔したことを思い出している。
そして、以来自分に「素直になれば?」と言い続けている。

「素直になる」これが私がいま一番欲しいものである。