あなたの背中はとても広かった。
「東京って、1人1人がばらばらな感じがするよね。それがきっといいんだろうけど、僕はちょっと寂しい」
そんな風に東京のホテルの窓から外を眺めながら、ポツリと喋った彼。
彼の本名も、何の仕事をしているかも知らない。知っているのは、とあるラッパーが好きなこと、そのアーティストの名前をTwitterの名前にしていること、写真を撮ることが好きなこと、愛知に住んでいること。
私はその人の撮る写真が好きだった。その写真は風景ではなく、女性との情事を切り取ったもの。顔はもちろん写されてはいないけど、女性が彼に最大限の笑顔を向けていることや幸せな時間と空間が伝わってくる。
どんな声をしているのだろう。いつか会ってみたい……なんて心の奥底では思っていたけど、会いたいなんて恐れ多く、ただただDMで少しずつやりとりしている程度だった。
会ってみたかった人が目の前にいる。夢と現実の狭間にいるようだった
突然その日はやってきて、偶然が偶然を呼んで会うことになった。
銀座線で彼が待っている場所に向かう最中、私は「ああ、きっと2度と会うことはないだろうな」。そんなこともぼんやり考えながら。
その日は雨だった。私はすぐ見つけてもらえるように真っ赤なコートを着て真っ黒な傘をさした。彼は身長高めでとても優しく柔らかい声をしていた。
挨拶をして雨の中、ポツポツとお話ししながら彼の後ろを付いていく。心臓のドキドキが止まらなかった。
なんでここにいるのだろう、そんなことも思っていた。
ホテルに到着して、彼が一言。
「会ってくれてありがとう」
お礼を言いたいのは私なのに、こんなに言葉って出てこないんだってくらい言葉に詰まる。私の体は固まっていた。ずっと会ってみたかった人が目の前にいる。
そんな私をみて少し微笑みながら、彼は優しく抱きしめてくれた。夢と現実の狭間ってきっとこのことなのだろうなと、どこか冷静な自分もいた。
いつのまにか好きが溢れてしまっていた。とても短い時間だったけど、私には永遠に感じた。
終わらないで。本気でそう願った。
けど時間はいつだって残酷で、さよならの時間が来てしまった。連絡先を聞いた。
「あんまり返信早くないよ?」
そう言いつつ交換してくれた。
あんなに会いたかった人なのに、なんで会ってしまったのだろう
それから1ヶ月が経ち、連絡がこなくなってしまった。私はその間、毎日のように彼のことを考えていた。
あんなに会いたかった人なのに、なんで会ってしまったのだろうと後悔が日に日に増していく。知らなければこんな気持ちにならなかったのに。
ただ日にちが経つにつれて、どんどん忘れてしまうことも増えた。彼の顔も声も曖昧になり、いい匂いもなんの匂いだったか思い出せない。記憶がなくなる自分に泣きたくなる。
あの時間が本当に存在していたのかさえも曖昧になっていく。
そういえばあの時撮った写真はどうなっているのだろう? 連絡したけど返信はこない。
きっと彼の記憶からも写真の中の二人もなかったことになるんだろうな、既読になったままのメッセージをみながら、なんで会ったんだろうなと胸が苦しくなる。
それから私はTwitterをやめた。Twitterをすると、彼の存在がそこにあるから。
知りたくなった、彼のこと。知らなければよかった、包み込むような優しい声と大きな身体。
苦しい日々を過ごす中、「過去の出来事は自分の宝箱に入れておく」そんなことを書いている小説を読んだ。
ああそうか、私も宝箱に入れちゃえばいいのか、もう2度と開けないように心の宝箱に入れてしまおう。
私は今、彼と出会った後の世界にいる。出会う前の世界には戻れない。知らなければよかったと後悔することがほとんどだけど、宝箱にいれたらきっと私はまた違う世界に進むことができる。
今度は誰かに胸を張って相談できる人との出会いがあると信じて。