何かを生み出す作り手になりたいと願いながら、裏方に徹している

2020年にコロナ禍に入り、人々の過ごし方が変わった。
おうち時間が増え、1人の時間も増え、自己を内省する時間が増えたと思う。それに伴って、YouTubeやnoteなどで自分の考えを発信する人も増加した。TikTokではコロナ禍を機に音楽投稿を始めた1年後に、メジャーデビューを果たした男の子が出てきたという。今、自己を発信することは人生を変える一つの方法になっている。

SNSで偉い人の目に止まり、あれよあれよという間に活躍していく人たちのニュースを見て、自分が嫌になることも増えた。
他人に影響を与えられる人は羨ましい。認められて、すごいと褒められて、ファンがついて。その過程で人生が一変し、忙しくも刺激的な人生を送るようになった人を間近で見た。私はそんな人たちを妬んだ。
親友と自分を比べて、涙が止まらない夜もあったし、これ以上息の合う人はいないと思えるその親友を嫌いになりかけた時もあった。そんな自分がさらに嫌いになり、夜な夜な自分を追い詰めた。
最初は、誰かに認められることが羨ましいのだと思っていた。でも、それは違った。

普段からエンターテインメントの世界の人々と会話をすることが多い私は、キラキラした人たちを見守りながら、裏方の雑務に徹している。
自分もステージの上や画面の向こう側、あるいは新しい何かを生み出すことができる作り手側に行きたいと、夜な夜な願ったこともある。でも、やりたいと思うことはその時々でバラバラだったから困った。
人前で歌いたいと思うこともあれば、映画を撮りたいと思ったこともあった。脚本を書きたいと思うこともあれば、小説を書きたいと思うこともあった。ただ目立つことで承認欲求を満たしたいだけかもしれないと思ってしまって、そんな不純な動機で妬みを持つ自分が嫌いになりそうなこともあった。

私の心を投影する「表現の手段」を探しながら生きていく

ある明け方、自分の天職は何なのかと思い悩んだ末、とある転職の際に利用される性格診断をやってみた。結果の文章に、こんなことが書いてあった。
「創造的な仕事に向いているため、このタイプの有名人の多くが、詩人や作家、俳優であるのも不思議ではありません。自己理解と世の中における自分の立場を重視し、自分の作品の中に自身を投影させることで、呼応した思想を探求します」

この文章を読んで、ハッとした。私が本当に欲しかったのは目立つ立ち位置でもなく、承認欲求を満たすことでもない。“自分を表現できる手段”だった。
友人が生き生きと歌で表現するように。いとこが静かに絵で表現するように。私の心の内にもひっそりと眠っている、でもどうにも外に出してあげられない考えや思いを表現できる方法が欲しいのだと。

心に渦巻くモヤモヤの原因に気づけた喜びも束の間、ただの一般人の自分が表現したいと思うなんて、おこがましいのではないかと思った。そこで、表現について調べてみると、どうやら表現することは私たち人間が生きる上で必要不可欠らしい。
日々、私たちは言葉で自分の思いを表現し相手に気持ちを伝えている。そう、言葉も表現の一つで、私たちは自然と表現と表現を交換しあいながら生きている。言葉という表現ツールを持たない赤ちゃんでさえ、泣き声という音を発することで自分が不快に感じていることを表現するのだから、自分の内側に潜む思いを内から外へ出したいと思うことは、至極当然のことなのだ。
人に何かを伝えたい=表現したいという思いが備わっていなかったとしたら、本も、手紙も、カメラも、ドラマも、映画も、ゲームも、Twitterも、Instagramも、Facebookも、青春の醍醐味である好きな人への甘酸っぱい告白や、ロマンあふれるプロポーズだって生まれなかったかもしれない。息をするのと同じくらい、自分の考えや思いを表現したいという欲求は、私たちにとって当たり前のことになっているのだと気づいた。
そうなってくると問題は、何を使って表現することが自分にとってベストなのかを知ること。 

自分がこれだと思う表現技法を、幸運にも若いうちに気づくことができる人が一定数いる。やっぱりそういう人はちょっと羨ましい。ちなみに、自慢ではないが、私には突出して得意なことがない。運動も音楽も人並みよりちょっとできるくらいで、一際目立つというほどではない。絵を描くことでいえば、線がガタガタの棒人間くらいしか描けないし、美術の成績は最高評価5のうち2だった。
もちろん、上手いから良いというわけではない。ただ、自分の心の内をありのまま表現して伝えるために、できるだけ丁寧に、器用に行える方法を見つけたいと今は思う。
だからこれから私は、私の心を投影する“表現の手段”を探していく。まずは、書くことからはじめよう。