どうやら私の性格は、最近よく聞く「SDGs」の思想に近いらしくて
物を捨てるのが苦手だ。
多分、貧乏性なのだと思う。破れた靴下は縫い合わせて使うし、野菜は皮ごと食べる。
なぜ貧乏性なのか、あまり考えてこなかったが、先日読んだ本にしっくりくる言葉があった。千早茜さんと尾崎世界観さんの『犬も食わない』という本だ。廃棄物処理の作業員をしている大輔視点の描写の中にその文章はあった。
「廃棄物を引っ張っていると気が紛れる。誰からも必要とされていなかった物が金に変わるという事実が、手の中にズッシリと重たくて、その事実に励まされる。」
自分の捨てるという行為が苦手なのも、誰からも必要とされないという感覚が苦手なところからきているのだろうなと思った。
最近になって「SDGs」というワードが流行り始めた。会社でも時々耳にする。
英語や短縮言葉に疎い私にとって、はっきり言って難しい。日本語にすると「持続可能な開発目標」というらしい。環境問題に向けた取り組みだけでなく、平等な社会の実現や平和に関する目標もあったので、幅広いものなのだと驚いた。
貧乏性な私が自然に行っている環境問題に対する取り組みは、先に述べたように物をできるだけ使い切るとか、ごみを減らすといった行動だ。
環境問題に対する取り組みというほどのものでもないかもしれない。もったいないなと思ったらやってしまう。それは私の性格だ。
ただ、人の家で料理するときとかに少し困る。野菜の皮をむくのが一般的なのだという事実にいつも困惑してしまう。自分の貧乏性を恥じてしまうことがある。
春夏秋冬で思い出す「自然」の記憶。思い出にはいつも祖母がいた
小さい頃、田舎で遊ぶ場所といえば川や海、山だった。
知らない人のいる保育園が苦手で、おばあちゃんっ子だった私は、祖母に連れられていろいろなところに行った。
春は山に山菜やタケノコを取りに行った。正月を過ぎたころには七草がゆを作るためにセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロを、さらに暖かくなるとフキノトウやツクシ、ゼンマイ、タケノコを採りに行った。
山に慣れている祖母の後ろを、落ちないように足をかけて登ったり、教えてもらったばかりの山菜を見よう見まねで採って「これは?これは?」と同じものか確認してもらったりした。
途中、道端に咲く花や初めて見る植物、鳥の声を聞いて、「これは何?それは?あのお花は?あの声は?」と、それらの名前や世界のことを知るのが楽しかったことを覚えている。
夏になると特によく川に行った。プールよりも川のほうが近かった。
焼けるような日差しの中、流れる水に足を浸すとひんやり冷たかった。川底のいろいろなサイズの石には藻がついていて、足裏は少しぬめりとする。1歩、また1歩と滑らないように大きな石に手を置いてバランスを取りながら進んだ。
慣れてくると祖母とともにエビや魚を採った。
網を構えて石をそうーっとめくれば1度に2、3匹入る。祖母は川の生き物を採るのがとてもうまかったので、1日で鍋一杯分くらいとれる。それを天ぷらにしたり、甘辛く煮つけたりして食べるのが好きだった。
秋になると木の実を採りに行った。どんぐりや栗、ゆずを採ってきては家で処理をして食べた。春と同じように山道で見つけたもの、聞こえた声について祖母に聞くのが大好きだった。
物知りな祖母は小さい頃の私には魔法使いのような存在だった。何を聞いても楽しそうに話してくれる時間が大好きだった。
あの自然と記憶を守ることになるなら、私の貧乏性も悪くない
今でも、山や海や川に行くが、そこに癒しを感じるのは小さいころに過ごした時間が私に今も安らぎを与えてくれるからだろう。
自然の中に幼いころ過ごした時間が流れている。
人間の体感時間は、生きてきた年齢に反比例するらしい。5歳の子供の体感時間は大人の6倍以上の長さだともいわれる。自然の中にいると、祖母と過ごした子供の頃のすべてが初めてで、すべてが輝いて見えていたあの途方もない時間に呑まれる感覚がする。
そんな時間を提供してくれる自然を守るためになるのなら、他の人と比べて卑下してしまいがちな私の貧乏性も悪くないなと思う。