コンポストを買った。燃やせるごみは、意外なほど少なくなった
1人暮らしで、燃やせるごみを出すのはおよそ2か月に1回、市の指定の最も小さいごみ袋1袋分。自分でも意外なほど少なかった。
新聞やコピー用紙の類は古紙回収に出す。プラスチック容器や包装は、そのほとんどを洗ってプラスチックごみに出す。びしょ濡れのまま捨てるのもよくないだろうから、ビニールごみを干すための場所を作った。
生ごみは室内コンポストに入れる。少し奮発して、特に臭いが出にくく虫が寄りにくそうなコンポストを買ったのだった。
そうすると主な可燃ごみは、生理用品、埃屑、油のついたビニールや再資源化困難な紙切れ、といったところになる。生理用品の占める割合はそれなりに高く、紙おむつを使う家庭は大変だろうと想像する。
この市指定のごみ袋は近隣市町村に比べても高価で、議会でも値下げが議論された。結局、燃やせるごみに関しては、ごみの減量への悪影響を懸念する意見などが通り、据え置かれることになった。この決議には、議会の派閥争いが関与しているとか、いないとか。
何らかの形でこの世界に生まれてきたものが、誰かに加工され、運ばれ、人間の用に供された。あらゆるものに物語があって、携わった人の思いがある。それが無名のごみとして燃やされ、最終処分場を埋める灰となる。
それは我々の生活に不可欠な営みだが、ものを十分に使い果たさぬままその道を辿らせるのは悲しいことだ、と幼い頃から思っている。
不用な物を誰かが処理してくれていることに、目を背けている
地球のため、などという大それたことを考えているわけではない。使い終わったものを、不毛なまでに次々と灰が堆積される処分場へ送ることに、極力手を染めたくないという卑屈な動機だけがある。
生産されたものを享受し、使い終われば次の生産のことを考える、それは都合のよい夢だ。毎日大量のものが捨てられている、ごみに代表される不用物を誰かが処理してくれている、という事実から私は目を背けて生きている。
室内コンポストを攪拌すれば、分解されかかった生ごみ、すなわちかつて生き物であったものの一部を目にすることができる。それに私は安らぎを覚える。
私もいずれ死ねば土に還る。私という小さな凝りであることを離れて、周囲の土や空気と融即し、多少は土壌を涵養する足しとなる。
小学1年生の頃から、生きることへの罪の意識に苛まれてきた
そのようなことで、私の存在が正当化されるわけではない。日々たくさんのものを殺して生きていることが、赦されるわけではない。
それでも、自分が食べたものが自分の一部となっていると同時に、自分の食べたものが将来の自分の姿だと思うことが私の救いだ。
そういう順番なのだと思える。不可逆であることは、怖いことというよりも、秩序なのだ。
小学1年生の頃、他の命を食べてしか生きられないこと、そればかりか自分の当たり前と思っている生活によって取り返しのつかない環境破壊が引き起こされていることに突如として気づいてしまい、生きることに対する罪の意識に苛まれてきた。
それは、自分が生きていることで生きられるものがいる、生まれるものがあるとか、あるいはそのように生きるべきとか、そういう言葉では弁解できないものだ。
ただ、この命は、私にしか生きられないものでありながら、決して私ひとりによって在らしめられてはない以上、私の所有とも言えない。ありていに言って、その意味を考えながら生きるより他に、倫理的な態度として選び取ることができず、そうして一歩一歩分解へ向かっていく。