欲しいものにあふれて生活している。別にお金には不自由していない。不自由しないように毎日毎日働いているから。
こんな形の服が欲しいだとか、あんな感じのアクセサリーが欲しいだとか、そんな細々した欲求はすぐに叶う。すぐに叶うから、そんな小さな願いを一つ一つしらみ潰しに消化して人生を充実させた気になっている自分は、薄っぺらだと感じてしまう。

お金を貯めて夢だったものを買ってみたが、思ったより満たされない

「高校の頃から続けていた弓道の弓が欲しい。どうせ長く使うんだから、それなりの値段のものが欲しい」
当時バイトを始めたての私にとっては、どれだけ大きくてキラキラした夢だったかわからない。今思えばたいして新鮮味を含まないバイトだって、とても真新しくてやりがいにあふれたもののように思えたし、俄然やる気が腹のもっと底のほうから湧いてきた。
新しく構築した友人関係のため、不測の出費を重ねながらも、ある程度の我慢を積み重ねることで数ヶ月のうちにその願いは叶うところとなった。
ただ、全貯金を弓に投資するのは不安に思えたので、何倍も貯金を手元に残せるようになってから弓を買った。

どこか温かみをはらむ冷たいそのカーボンの弓の重さが手のひらに収まったとき、胸を満たしたのは充実感でも達成感でもなかった。
ああ、こんなものか。それが正直な感想だった。

高校を卒業すると、あんなに愛していた弓道がただの趣味になった

弓は私の軸だった。生まれて初めて、全部をかけて頑張ろうと思えるものだった。
なぜ頑張りたいのかだとか、どうしてこんなに好きなのかだとか、そんなの考える暇もないくらい弓道と、私の弓道を取り巻く環境を愛していた。理由なんてなかった。
大好きではあったが、当然、高校の「黄金の千日間」の魔法が解ければ、その特別な場所は奪われた。もっとも、その前に感染症が私の最後の弓道舞台を打ち切って、我慢こそが美徳であると大声で叫び散らかしたから、言葉を全部飲んでお望み通りその美徳を実行した。

正直案外なんとかなった。大学受験も成功した。このことがよくなかった。
大学で行きついたユルい弓道インカレで、あんなに好きだったはずの弓道をしても、あの頃の緑色の風のような綺麗な思い出の中には戻れない。
それはあの千日間のレプリカでしかないわけで、その時は多少心が盛り上がっても、どうせ一過性の楽しさを飲み干したら、心の穴に収まり切らないくらいの虚しさが生活を内側から蝕んでしまうことはわかりきっている。

自分の軸が、紙のはしにたまにやる落書きと同格のただの「趣味」に成り下がっていくのを、自分のことなのにどこか他人事のように薄ぼんやり眺めていた。
じゃあ他の趣味を作ろうとゲームを始めてみたり絵を描いてみたり。まあお察しの通りそれもダメだった。全部ダメだった。

弓道に明け暮れ夢中になれたあの日々のように、何かに本気になりたい

大学生になった今、何につけても「こんなことして将来になんの役にも立たない」という刃物のような言い訳が、私の後をどこへ行ってもしつこくつけて回るのだ。
正直弓を買ったあの時だって、お金が手元を離れるのが怖くて貯金を育てて身辺を固めてからやっと弓に手を伸ばしたんじゃないか。浮かされるように弓に手を伸ばしたあの頃の自分は死んでしまった。
生産性こそ正義であると、誇らしげに説くこの社会が殺してしまった。嘘。生産性だとかいう安易な言い訳を得た私が、私のこの手で殺してしまった。
欲しいものが物ではなかったあの時代の自分に戻りたい。将来とかいう漠然としたクソみたいな、もっともらしい言い分から目隠しされて、ただ勉強と弓道に明け暮れることが正義だったあの頃に。

いや、これもきっと言い訳なんだってことは、もう痛いほど気がついてしまっている。もう認めよう。弓道がなくても『生きて』いけることに慣れてしまったはずの自分が、もう一度、あの楽しかった日々を取り戻したくて中途半端にもがいている日々を。
理由とか理屈とか考えなくても本気になれる何かが欲しい。自分には夢がない。心の底からしたいと思えることがない。
やりたいことが欲しい。夢が欲しい。夢さえあれば世界はきっとその輝きをもう一度私に見せてくれる。生きる意味を与えてくれる。生きる意味を与えてくれる何かが欲しい。生きてきて今が一番楽しいと、もう一度だけ、心の底から、思いたい。
本当に欲しいものが、一体どんな形をしているのか、誰も、誰も教えてくれない。
なぜなら、それが本当に欲しいものだから。