私は、物欲が薄い。
このコロナ禍に入って私は初めて「楽天マラソン」なるものに参加した。だが、悩みに悩んで絞り出し、購入したのは4点。
実際に手にして色味や素材をみてみないと、私は“欲しい”という感情が呼び覚まされにくい“ステレオタイプの消費者”であることを実感した。

コロナ禍でイベントごとが消え、五感を満たす満足感が足りない

そんな私だが、なぜだかお金はたまらない。何にお金をかけているかを見直してみたときに、コロナ禍前は圧倒的に「交際費」につぎ込んでおり、プラスしてライブやイベントごとへの参加、習い事に消費をしていた。
コロナ禍に突入してからも、お花を近所のお花屋さんで購入して毎日お世話をすることや、近所にできた紅茶屋さんでゲットした香り高い紅茶を休日に飲むこと、コロナ禍でも形を変えて「自分の心を潤すもの」を探し、それなりに満たしてきたつもりだ。
それでも、それなりに楽しく充足した日々を過ごしているはずなのに、どこか空しく満たされない気持ちがずっと拭えなかった。

何が足りないのか、この空虚さは何なのかを考えたときに、「五感を満たす満足感」が足りないのだと気づいた。
季節のイベントごとを大切にしていたので、春になれば知人友人とお花見やピクニック。夏になれば浴衣を着て花火を見に行き、秋になれば食欲の秋とかこつけてはあちこち食べ歩き。冬になれば、ウィンタースポーツやクリスマス等、季節に紐づけて楽しいことをたくさん企画していた。

コロナ禍に入ると、大人数では集まれないし、友人を誘いたくても仮に私の誘った場所でコロナに感染してしまったら申し訳ないという思いが先行し、誘いの言葉を飲み込む機会が増えた。飲み込んだ言葉はしこりとなって喉につかえたような気がした。
そんな窮屈な日々のなか、寒暖差を肌で感じるだけで季節が流れるように過ぎていった。

いつも行動にストッパーがかかる、小さな諦めが積もった社会にいる

一人で行動しようにも、感染者が一定いるなか、人数が多い場所に行くのは……と気が引け、参加を見送ったり、海外旅行はいつになったらいけるのだろうかとぼんやり過去の旅行写真を見返しつつ旅行ガイドを手繰ったり、新しいことを始めたいけれども、いつまた「まん延防止等重点措置」が出るかわからない環境のため、長期契約は控えようと、事あるごとに選択する際のストッパーがかかる。
ずっと同じ場所に踏みとどまり、足踏みしているような毎日だ。

一つ一つは取るに足らない小さな不満も、少しずつ少しずつ静かに砂時計が砂を落とすように体内に積もっていくのを感じる。コロナ禍の前には会いたい人にすぐに連絡をし、行きたいと思ったら現実味のある範囲であれば一人でどこへでも訪れていた私にとっては、非常に窮屈な気持ちがしている。
日々を諦めているような悲しい思いがずっと胸中にくすぶっており、積もり積もって息苦しさが呼吸を浅くする。そういう小さな諦めのない社会が今、心からほしいと感じている。

手で触って目で見て、五感を全力駆使して購買欲をくすぐられる購買行動のように、私は無機質なオンライン越しではなく、直接目を見て空気感を共有しながら友人と会話をしたい。
テレビを通してではなく、音響に支配されたライブハウスという独特な箱のなかで音楽が聴きたい。
紙面や画面を通してではなく、自分の足を踏みしめて異国の地を巡り、味覚や視覚を駆使して良さや違いを感じたい。
春夏秋冬が気候だけを肌で感じて終わってしまうのは、なんとも悲しく切ないと思う。

結局、私の心を動かすのは、“五感”なのだと思う。だからこそ、軽やかな心で五感を使って惹かれるものに、制限なく羽ばたいていける日常が早く戻ってきてほしいと切に願っている。