決断という言葉は、ポジティブな意味合いばかりが強調されがちなように思う。
あの決断で強くなれた、あの決断で状況が好転した。
電車の吊り広告や本屋のベストセラーの山積みの影響だろうか、『決断』という言葉には好印象なイメージばかりがちらつく。
状況が変わった、という意味では、私の決断も見ようによっては好意的な意味合いを持つのかもしれないが、決断した筈の私は今でもなんだか煮え切らない後味の悪い思いをしている。
これは、そんな私の決断の話だ。

環境は一変した。演劇のえの字もない、静かなものになった

時は2020年初旬。
その頃、東京のはずれにある我が職場には、まだコロナのコの字も無かった。
中国出身の同僚が、「郷里の人々がコロナで大変なことになっている、コロナって大変な病気なのに日本人はなんでこんなに呑気にしているの?」と、盛んに話していたが、当時の私たちは「コロナなんてただの風邪でしょ?そんな大袈裟な」と、彼女のことを心配性だと笑っていた。

その数ヶ月後、日本でもコロナ感染者が増え始めて、大型商業施設の中にある我が職場は緊急事態宣言の休業対象となり休館した。
アルバイト雇用の私に他店への応援という選択肢は無く、突然2ヶ月ものまとまった休みが降って湧いた。
有給を大量に保有していたので、生活費の面ではあまり心配はなかったが、同じ頃、内々で出演が決まっていた舞台の中止が決まり、半年後にはお世話になっていた演劇団体が解散を発表した。

これはなんだか大変なことになっているのかもしれない。
単純に長期休暇を喜んでいた私も、ここに来て足元から這い上がってくるような不安を感じるようになった。
勿論私だけがそんな目に遭った訳ではなく、お知らせを貰っていた役者仲間の公演も延期や中止が相次いだ。中には公演を断行したり、YouTubeの配信に切り替えたりした団体もあったが、2020年の1年間、私の周りはそれまでの環境から一変、演劇のえの字もない静かなものになった。
これまでずっと演劇演劇演劇と脇目も振らず生きてきて、演劇がない生活なんて考えられない!と思っていたが、人間慣れるもので稽古もなく観劇もない、ただバイトと家を往復する日々にも、そのうちなんの違和感も持たなくなっていった。

エキストラでもいいから所属できる事務所はないか、探しはじめた

そうして1年が経った頃だった。
たまたまメールが届いていたエキストラ募集がバイト先の休みと重なっていたので、本当に久しぶりに私は映像の現場に出向いた。
別にこれと言って台詞がある訳でもないが、やはりお芝居は楽しくて、薄れかけていた「演劇をしたい」という欲求が再燃した。

現場から帰宅するとPCを起動して、エキストラでもいいから所属できる事務所はないものかと探しはじめていた。
何件か応募してみて大体は返信なんてこなかったが、一件だけ折り返しをくれた事務所があった。
別に有名な人が所属しているわけでもない、名前だって聞いたこともない。所謂小規模のエキストラ事務所だった。それでも、もう一度お芝居に触れることが出来るのなら、という思いで日程を調整し、オーディションに向かった。

初めて訪れたその事務所は、予想していたよりも小綺麗だった。
事務所内ではスタッフさん達が忙しそうにパソコンに向かっており、担当者があくまで、と鏡張りのレッスン室に通された。
オーディション用の台本に目を通しながら、そういえば自社でスクールを経営しているとHPに書いてあったな、とぼんやりと思った。暫くしてキャスティング担当だという、ラフにスーツを着崩した男性がやってきた。
お互いに軽く自己紹介をして、実技試験に入る。

A4用紙1枚分の演技を終えると、男性は口を開いた。
「あなた、経験者だったっけ」
自己紹介をした時とは打って変わった気だるそうな口調だった。
所謂芸能事務所、と呼ばれる団体への所属経験はないが、劇団での活動経験はある。
「まあ、一応」と答えると、呆れた様なため息をつかれた。
「あなたの演技からは何も感じない。形をなぞっているだけに見える」
そう言いながら、これまでがどんな経歴かは知らないけれど、と前置きをした上でもう一度その男性は履歴書をチラリと見た。
「それで、もう28でしょ?」
正直、この年齢でその演技は可能性ないと思うけど、うちのスクールなら案内できるよ?ただそのスクールも一番下のクラスだってついていくのが難しいと思うよ。
男性はそう言うと、今回のオーディションはこれで終了だと一方的に切り上げた。
あまりの言われように私は一瞬茫然とした。

自分を納得させてきたことが、全部まやかしのように思えた

建物を出て、駅へと向かう道を行く。頭の中では、男性の馬鹿にしたような言葉ばかりがぐるぐると巡っていた。
駅に着き、ふと顔を上げると目の前に備え付けられた鏡があった。鏡に映っていたのは、お世辞にも見目が良いとは言えない、鍛えても絞ってもいない垢抜けてもいない、だらしない体型をした女が一人いるだけだった。魔法が解けるようにこれまで、それなりの経験者だと思って自分にかけていたフィルターが剥がれていく。

同時にこれまで不合格になってきた幾多のオーディションのことを思い出した。
相性が悪かっただけ、今は求められている人材じゃなかっただけ、そうやって自分を納得させてきたことが全部まやかしのように思えた。

30歳手前、パッとした経歴もなし。
私は役者ではなく、役者志望の夢見る夢子ちゃんなのだ。
そう、悟ってしまった。
あの男性が、勧誘の為にああ言ったのか現実を突きつける優しさのつもりだったのかは知る由もない。ただ、私はこれをきっかけに役者はもう辞めよう、就職しよう、と「決断」するに至った。
やりきった納得の上、というよりも、諦めの気持ちが大きい決断だった。
今でも叶うなら役者として生きていきたい。
でも私はそこから離れる決断をしたのだ……という悔しさが未だある。