数年前の桜が咲き始めた頃、東海道新幹線の下り、自由席車内にてスーツケースを机にして乗せたお弁当を前に、私は泣いていた。

高校入学時、親が離婚した。
5人兄弟の長女が私。
家の前の大きな桜の木の下で毎年、春を迎える度に家族写真を撮っていた。
気づいたときには、写真を撮る風習はなくなっていた。
仕事で父の帰宅時間は遅く、一緒に夕飯を食べた記憶はない。
電子レンジの上にラップのかけられた母の夕飯が置かれていたが、気づいたときには置かれることもなくなっていた。

母が作る「茶色のお弁当」は、とにかく恥ずかしかった

桜が満開のころ、家族がひとりいなくなった。
正直、私にとって父の存在はあってないようなものだったから、あまり実感は湧かなかったし、そんなことよりも受験戦争で勝ち取った高校生活という新たな世界に順応することの方に必死だった。
イーストボーイの白いセーターを身に纏い、毎日髪の毛をヘアアイロンで整えてから家賃8万の小さな古い家を出る。
部活にアルバイト、遊びに明け暮れ、家に着くのは毎日夜22:00前後。
私が家に着く頃には、母は部屋の隅で眠っていた。
朝5:00に母はパン屋のパートに出て、それからまた別の仕事を夕方までしていたから、顔を合わせるのは私のバイトが無い日くらいだった。

毎朝、私が起きると、電子レンジの上にはピンクのお弁当箱があった。
メニューは大体決まってる。
冷凍のから揚げや肉団子とかに、ギザギザのカップに入ったきんぴら。
ごはんはおかかか海苔か、そぼろ。あと、焦げて茶色くなった卵焼き。

茶色のお弁当は、思春期真っ只中の女子高生の身としては、兎にも角にも恥ずかしかった。
友だちのお弁当の卵焼きが綺麗な黄色と白で、本当に綺麗で羨ましかった。
家庭環境のことを打ち明けられずにいた私のお弁当はとてもみすぼらしくて、イーストボーイが身の丈に合っていない人間であるということが見透かされてしまうような気がしていた。

私は母と顔を合わせると、よくお弁当のことで文句を言った。
「色味が足りない」
「においがきついものは入れないで」
「トマトは嫌いだから入れても無駄だよ」
「もう食べたくない」

気づいたときには、電子レンジの上にピンクのお弁当箱が置かれることはなくなっていた。
でも、そこまで落ち込まなかった。
むしろ、毎日購買で好きなものを買って食べる側のJKになれたことに、少し嬉しさを感じたりしながら高校生活を楽しんだ。

大学進学に猛反対する母に、お弁当の文句は言えても本音は言えない

高校2年の暮れ、周りが進路について悩み出した頃、私はこの荒れ放題の家を出ていきたくて、家からは到底通えない、しかも偏差値も到底及ばない大学を志望した。
もちろん周りの全ての大人から肯定的な反応を得ることはできず、とりわけ母からは猛反対された。
そもそも大学に行かせられるお金がないから奨学金で行くしかないし、仕送りなしで一人暮らしとなったら苦しむのはあなただからと。

お金を出してくれない。
どうせ、奨学金を背負うのは自分だ。
それなのに、どうして自由にさせてくれないの?
だって、大学生になってもこんな家で生活をするなんて考えたくもない。
まず、自分の部屋がない。庭にはドクダミが生い茂り、カビだらけのお風呂。
友だちができても、彼氏ができても、絶対にこの家での暮らしを見せることはできない。
バレてしまったときの恐怖心とくらべたら、お金を稼ぎ苦労するという選択の方が精神的には圧倒的に楽だろうと感じていた。

しかし、お弁当のことは散々文句を言えたくせに、朝から晩まで自分を犠牲にしてギリギリで生活を回している母に対して、この気持ちを吐露することはできなかった。
だから、私は母を説得することがどうしてもできず、奨学金支給より前に支払わねばならない受験料や入学金も全て自分で工面するという条件で受験勉強をすることになった。

只、アルバイトで大学受験の費用を貯めながら勉強をする生活は現実的な選択ではない、ということに、高3の年末あたりにうっすらと気がついた。
案の定、私の桜は全く咲くことなく、浪人しアルバイトをしながら勉強を続ける道を選んだ。
家は勉強できる環境ではないため、月払いの自習スペースをレンタルして朝5:00から夕方まで勉強、夕方から夜までバイトという日々を過ごした。

自分で作るおにぎりは味がしなくても、母と飲むコーヒーは味がした

意外とお金が貯まらない。
高校生の頃は定期の範囲内であれば電車でどこまでも行けたけれど、もう定期はない。
自転車で移動をすることにした。
冬の夜明けに自転車を漕ぐことがこんなに痛いものなのかと、初めて知った。

お昼ご飯を毎日コンビニで買っていたら、意外と食費がかかることに気がついた。
自分でお弁当を作り始めた。
とにかく時短でできるもので、安くて、腐らないように、とか考えて作っていたら毎日同じメニューになった。
そのうち、お弁当箱を洗うのもめんどくさくなってきて、おにぎりとウインナーを一緒に握って持って行くようになった。
お弁当作りがこんなに面倒なことなのかと初めて知った。
毎日自分で作ったおにぎりの味はしなかった。

けれど、毎朝飲むコーヒーは味がした。
私と母の生活リズムが被るようになったため、毎朝コーヒーを飲みながら録画した15分の朝ドラを見るのが習慣になった。
それ以上のことを話すとまた喧嘩が勃発しかねないから、会話は朝ドラの感想を少し交わす程度だったけれど、誰かがそばにいるということは唯一の救いだった。
バイトが絶望的に忙しかった日も、寒すぎて布団から出たくなかった日も、母が家を出る前に一緒にコーヒーを飲まねばその日の戦は負けだと思い、毎日起き上がった。

母から渡されたお弁当。相変わらず卵焼きは茶色かった

一年越しに、第一志望の大学の合格通知が送られてきた。
その時の母がどんな表情だったかは覚えていないが、母が撮影していた、私が泣きながら祖母に電話する様子や、下の弟と一緒に合格通知を囲む写真がカメラロールにはたくさん残っている。

住む場所の手続きやら友だちに報告やらで、あっという間に引っ越しの日になった。
私という家族が一人減ったあの日はよく晴れていて、家の前の桜は例年より早く花開いていた。
インカメで母と桜の木の下で写真を撮った。こんなアングルじゃあ桜がは入らないよとか喋りながら。

駅まで見送りをしてくれて、別れ際にお昼はこれを食べろと紙袋を渡された。

新幹線に乗り、紙袋の中にはタッパーに入ったお弁当が入っていた。
相変わらず、卵焼きは焦げてて茶色くて、お弁当って味がするんだなあと泣きながら食べた。

あれから数年経ち、大学も卒業した。
今、私は母ととある田舎町に暮らしている。
仕事へ行く母に私はお弁当を作っている。
必ず卵焼きを入れている。時々焦がしてしまうこともある。