愛ってなんだか怖いし重い。愛というテーマを避けてきた

愛ってなんだか怖いし重い。「永遠の愛」と言うけれど、そんなこと本当にありえるのだろうか、もしかすると裏切られるかもしれないのに。今まで愛というテーマを自ら避けてきた気がする。こっぱずかしいし。

私は「愛してる」と言われたことがない。だからと言って、私が愛されていないわけではきっとないし、私も愛したことがないわけではない。
ただ、私の中のどこかに存在するはずの愛を、それを外に出すのが難しいのだ。だからこそ、日常で愛を感じることも難しく思えてしまう。
でも、愛は実はそんなに遠い存在ではないと思う。たとえば、私が愛をいちばんに感じる瞬間はいたってシンプルで、誰かと一緒に食べているときだ。
私は食べることが好きだし、それに楽しい会話が加わるとさらにおいしく感じる。どうでもいい話で笑いながら食べると、ヘビーなごはんもカロリーゼロのように軽くなる。

高校生のときは「人と食べる」ことに愛なんて感じていなかった

でも、私が高校生のときは、「人と食べる」ことに愛なんて1ミリも感じていなかった。
家族でごはんを食べるときは延々と母の話を聞かされ続けたり、「ふつう」の3文字でしかない薄っぺらな学校生活を語ることを強いられるからだ。
学校の昼休みも、たしかに一緒に食べる友達はいたが、たいして話も盛り上がらずに黙々と弁当を食べていたので、愛なんて感じることもなかった。

しかし、大学生になって1人暮らしをはじめてからは、私は家で孤独に食事をすることが増えた。
授業が終わったら、誰もいない家に帰ってくる。「ただいま」と言っても誰からも返事が返ってこない。
1人で自分のためのごはんを作り、自分だけでごはんを食べる。会話をする相手がいないので家の中はシーンと静まり返っている。私の咀嚼音と時計の「チッチッ」という音だけが響く。そんな空間に飽きたら、テレビやYouTubeを観ながら黙々と夕食をこなす。その繰り返しで日々が過ぎていく。

そのうちに、だんだんとごはんが美味しく感じなくなってきた。今日の昼は何にしよう、と考えるのすら面倒くさい。
あんなに好きだった食べることが、私の敵に回ってしまった瞬間だった。

人と関わり合って食べるから、ごはんをおいしく感じるんだ

そんなとき、私はアルバイトを始めた。そのバイトは大学生が多く、仲間を作りながらお金を稼げるという点が売りのアルバイトだった。
今までは1人で完結する作業系をメインにしていたので、みんなでコミュニケーションを取りながら協力して作業を行う仕事は久しぶりだった。

事務所には飲み物とお菓子が置いてあり、みんなで休憩時間に飲み食いした。
初対面の人たちなのにも関わらず、「どんなお菓子が好き?」「このお茶飲みますか?」など自然に会話が生まれる。そんな話をしながら食べるお菓子は本当に美味しかった。食べ物はコミュニケーションツールなんだなと気がついた。
みんなが同じものを食べるから、大量に用意されたお菓子がどんどん減っていくのが目に見えてわかる。それを見るだけでなんだか嬉しくなった。

人と関わり合って食べるからごはんっておいしく感じるんだ、もしかしてこれって愛じゃないのかな、とそこで初めて気がついた。
友達と、家族とごはんを食べれるのは当たり前のことではないと、一人暮らしで気づくことができた。愛はなくなったときにはじめて気がつく。愛されるのなんて、当たり前すぎたから。

「言わなくてもわかる」と、愛が表に現れないのはもったいない

日本では、言わなくてもわかるでしょという雰囲気を醸し出す文化がある。だから、愛は伝わりにくい。でも、周りの人はあなたを愛してくれている。愛が表に現れないのは、なんだかもったいない気持ちがする。
コロナでめっきり人と食べることが減った。最近は以前よりも収まってきたので古い友人を誘ってみたりして、(感染対策をきちんとして)積極的にだれかとごはんを食べるようにしている。
今の私はみんなで食べるごはんを本当にありがたく思うし、食べている間も終始笑顔でいる。みんなで笑っているとき、「ああ、私は幸せ者だな」と感じる。そんな当たり前の日常の瞬間に愛はしっかりと存在するのだ。