口数の少ない憧れの先輩の告白。「感情を書き留めておきたい」

クローゼットの奥に、ずっと捨てられない箱がある。中にはボロボロのノートたちがぎっしりと詰められている。中学生時代からほぼ毎日つけ続けている日記だ。

きっかけは、中学から高校まで所属していた剣道部の先輩である。その先輩は、見た目が派手で口数も少なく、おまけに試合では負けなしの強さで、後輩から憧れとも恐れとも似つかない感情を抱かれており、もちろん私もそのうちの一人であった。

私の所属していた剣道部では、夏合宿の最終日の夜に、夏合宿を期に引退する先輩が昔話を後輩に聴かせる時間がある。何の話からそこに発展したのかは覚えていないが、先輩の一人が「○○は昔から毎日日記つけてるよね!」とその派手な先輩に言い、普段表情もあまり変えない先輩が、そのときの感情を書き留めておきたいから、と少し恥ずかしそうに言っていたことを覚えている。

先輩たちは、特にそこに突っかかりもせず、それまでと変わらずコロコロと話題を変え昔話に花を咲かせていたが、私はなんとなくその先輩の魅力が毎日日記をつけるという行為に詰まっている気がして、帰ったら私も日記をつけはじめよう、どんなノートに書こう、どんなことを書こうと、帰宅後につける私の「日記」へ想像を膨らませていた。

悲しいとき、困ったとき、日記が助けてくれる

そんなこんなで、日記を付け始めてから10年ほどの月日がたった。
書き終えたノートは、基本的に誰の目にもつかないクローゼットの奥の箱の中にしまっている。特に大層なことが書いてあるわけでもないが、自分の毎日の結晶のような気がして、どうしても捨てられない。

それに、これがたまにとても役に立つのだ!
どうしようもなく悲しくなったとき、理由がみつからなくて困惑しているとき、何を感じていいのかわからないとき、自分の感情にどう対処していいのか迷ったとき、クローゼットの奥からこの箱を引っ張りだす。

中学時代からのノートをパラパラとめくると、その日食べたものや友達との他愛ない会話の記録のなかに、昔の私の感情や思考が埋め込まれている。過去の自分の文章を読んでいるのに、なんだか赤の他人の思考を辿っているような新鮮な気持ちになる。
そしていつのまにかモヤモヤとした感情が消えたり、自分なりの解決策がぼんやりと浮かんでくるようになるのだ。こうしたときに、剣道部の先輩の「そのときの感情を書き留めていたい」という言葉が少し分かった気がする。

日記を読み返すと、目の前の道がぱあっとひらけたような気持ちになる

人は、日々、様々な出来事、行為、思考、感情にさらされ、様々なことを考え、感じる。あまりにも多くの思考や感情に触れ、同時にそれらを生み出すので、それらの多くは刹那的で、言語化される前に雑踏の中に消え、一瞬のうちに忘れ去られてしまう。
日記をつける行為は、そうした小さな心の揺れや動きをじっくりと言葉にうつす行為である。日記をつけなければ人と人との間に流れてしまっていた感情や思考のことを思うと、その行為がとても美しく静謐で、なくてはならないもののように思える。

さらに、その作業は、自分のことをより理解する行為につながるし、たとえ日記に書いたことをすっかり忘れてしまっても、数年後、数十年後に見返したときに、自分の思考を辿る助けとなるのである。自覚していなかった自分の大事なものや価値観が、日記を読み返すことで明らかになる。たまに日記を読み返すと、目の前の道がぱあっとひらけたような気持ちになるのだ。

おそらく、これからも日記を頻繁に見返すことはないだろうが、日記をつけることをやめないであろうし、書いた日記の山を捨ててしまうこともないだろう。
日記の山は「わたし」の記録であり、財産なのである。