わたしは今まで日記を書けた試しがない。ブログも続いたことがない。恥ずかしくて書けなかったのだ、本当の自分についての全ての事象を。

日記を書く効能については知識として知っていた。
日々の悩みや挫折について、ほのかな恋情について、書き記して楽になりたいとも思っていた。書きつづるための言葉も持っていなかったわけではない。
でも、学校で提出すべき小論文では器用に点数を稼ぐことができるのに、自分を表現するためにいざ書こうと机に向かうと、頭が動かない。心が、押し留めようとする。いや、これは心じゃない。なんだろう…そうだ、恐れだ。

思春期の現実では、漫画や小説の美しい物語にならったような奇跡は起きないし、何も脳内で想像するようには動かなかった。感情を真正面から知覚すると、なんとか自分をこの世に押しとどめている自尊心すらバラバラになってしまいそうだった。わたしは、身を縮こめて生きていた。

読み返しては耐えきれず、突発的に書いた心情はすべて消した

無防備な日記を周りの人に見られたらどうしようという、心配はもちろんあった。
それにも増して、未来の自分に読まれることがどうしても許せなかった。将来の自分にバカにされる気がして。成長した将来の自分自身を信じられないのは、とても苦しい。

突発的に心情を書いては読み返したときに耐えられず、ページなら破り捨て、データなら全消去したことが何度も何度もある。
そして習い事や自主的な勉強で自分を忙殺して、心のざわめきをやり過ごした。
ゆらぐ10代の感性をぶつけた痕跡が残っていないのはとても惜しいな、と今になって思う。

コロナ禍は、今までの人生を反芻し、未来をどう生きるか考える時間がたくさんあった。
たくさんのものを見聞きして世界を観察する方法は手に入れた20代、じゃあこれから世界に対してどうやって自分を開いていこうか。
そのことについて考えたときにまず心に浮かんだのが、率直な文章を書くことだった。
言いたいことはあるけど、身体を使って人前で雄弁に語ることはずっと苦手。時間をかけて、自分の全意識から絞り出した制作物でなら、他者と対峙できる気がした。

感情をことばにすることで自分をより明確に知覚することができるように

書いていくうちに、今までまとまらなかった感情を常に多角的にことばで表現しようとする癖がついた。それは日常で自分をより明確に知覚することにも役立ち、結果的に気持ちが穏やかな時間が多くなった。

人に伝わる表現についても考えるようになった。適当に耳障りのよい流行りことばで自分を覆い隠すわけではなく、でも自分の気持ちを的確に伝えるには、幅広い語彙や情景を連想させるメタファーをここぞという時に繰り出すことが必要で、それはまさに術(すべ)と呼ぶべきものだと知った。
これまで娯楽として没入するばかりだったフィクションや詩集に触れる時に、伝える側の視点を学びたいという意識を持つようにもなった。

文章を書いた当時の視点が残る、というのは予想外のメリットだった。記憶というのはとても曖昧で身勝手なもので、一瞬の感情によって簡単に書き換えられたりもする。
だから、確固とした記述が残っているというのは、人生の岐路で方向性を見定めるのにとても役に立つ。事実の記録だけではなく、生々しい感情がことばに収納されてそこに存在しているのも大きい。

書くことが自分を癒すことにつながっている。稚拙だと感じるのは成長だ

去年から自分がつづっている文章を読み返してみると、たった半年でどんなに遠くまで自分が来たかに驚く。
実感としては地続きの自分でしかないけれど、書いてある葛藤や苦しさに、共感を覚えなくなってきている。
認知行動療法を自習したときにも、紙に書き出してみて、もう一度それを見つめて考えるというプロセスが重要視されていた。書くことが総じて自分を癒すことに繋がっていることが、実感として沁みてきた。

いまでも文章を書いて読み返すたびに、ことばの足りていなさを感じる。きっとまた半年後には、今書いているこれも稚拙だと感じるんだろう。でも今は知っている、それは紛れもない「成長」だ。
今までならすぐ耐えきれなくて消していた文章を、蓄積することを大事にしよう。未来の自分のために視点を保存してあげたい。その行為は、この世界に存在する自分自身を受容する態度につながると思うのだ。