私の実家の本棚には何冊かのノートがある。
小学生の頃に書いた漢字のノートから、今使っているスケジュール帳まで、沢山のノートに出会い、文字を書いてきた。だが、この本棚にあるノートには、捨てることのできないある理由がある。

人付き合いが苦手。捨てられないノートには本音がつづられている

私は昔から人付き合いが苦手だった。
友達がいないわけではないし、人と話すのが嫌いなわけでもない。
ただ、自分の発言や行動が正しいのか、その場に馴染めているのか不安に感じるのだ。誰かといても、「もし私がああ言っていたらこんな展開になっただろう」とか「あの子のあの表情は、もしかするとこんな過去があるからかもしれない」などの妄想を繰り広げている間に、他の人たちは二、三個先の話題へ進んでいるのだ。

それは自分の性格なのか、ひとりっ子のせいなのか。保育園の頃は一人でずっと本を読んでいても構わなかった。けれど、大きくなると人と人が自然に交わっているのがなんだか不思議だった。
なぜ会って間もないのに、そんないきなり手を触れるほど仲良くなれるのか。学校からの帰り道、話が途切れるのを恐れずに「一緒に帰ろう」と言えるのか。
私は無意識にそれをすることができなかった。

悩んだ結果、小学校四年生の私はキャラクターが表紙のノートに、友達が多い子を観察して特徴を書いてみた。そこには、顔に被らない前髪、大きく開いた目、笑顔の似顔絵と、その横にはみんなを褒めて励ます、はっきり話す、赤色が好き、周りをよく見る、と書かれていた。その日から私は、ノートに書かれている子になりきって過ごした。
中学、高校の頃には、廊下を歩けば沢山の友達に挨拶されて、休日は予定で埋まった。その当時に書かれたノートには「なんで〇〇君(当時好きな男の子)は静かな女の子が好きなんだろう」とか「〇〇ちゃんはアニメの話ができるから一緒にいて楽しい」などと自分の本当の気持ちが書かれている。

その頃の自分は、このノートの中だけに本当の自分の言葉をつづった。だから、こうして大人になった自分があの頃の自分に寄り添わないと、誰が寄り添ってくれるのだろうと思う。なので、捨てられないのだ。

取り戻した本当の私。それでもノートは捨てられない

だが、そんな偽りの私は大学生の頃に、糸がプツっと切れたように誰とも話さなくなった。クラスはないし、自分の取りたい授業だけ受けていればいいし、1人で昼ごはんを食べても不審に思われない大学生活は、私を本当の自分に戻した。
だが今でも1日が終わると、今日の自分の言動や他人の反応について思い出して考えたりもする。それがストレスになっているのではないし、治したいとも思わない。
よく人は「人の目を気にせずに生きろ」なんて言うが、私は人の目を気にして偽って生きたあの頃も、ノートの中にいる私は本当の私だと思える。それも含め私だからだ。

迷った時や悩んだ時はノートを見返して、14歳の頃、17歳の頃の私に会いに行く。今の私になんて声をかけるかと考える。今もノートを持ち歩き、ふと時間があると開く。
書いている時間は1人だけの世界で楽しいからだ。未来の自分のために、今の自分の跡を残している。