20代後半ともなると、怒涛の結婚ブームがやってくる。そして次に来るのは出産ブーム。
私は一生涯続けていきたい職業が未だによく分からないし、結婚のけの字もない。いつかタイミングが合えばするかもれないくらいにしか思っていないが、ずっと子どもは欲しいと思っている。この意思だけは揺らぐことなく歳を重ねてきた。
ここにきて敢えて問いたい、なぜだろうと。

「子どもを産んで一人前」という言葉に見るタブー性と恐ろしさ

つい最近2人目を出産した友人は、自身の人生を「平凡な」と形容していた。
確かに「女は子どもを産んで一人前」という言葉があるように、女性の人生を縦軸で見ていくと、出産は珍しいイベントではないのかもしれない。
でも21世紀を生きる人間は、この言葉がいかに人権侵害甚だしく、フェミニズムを学んでいなくても当たり前にタブーであることを知っている。身体の都合上出産できない人、出産をしない選択をした人を、完全に異端とみなす恐ろしさがある。

しかし、そこまで理解した上でも私の出産欲は消えない。まるで「それはそれで、これはこれ」と、非常に子どもっぽい意見のもとに君臨している気すらする。おままごとをしていたあの時から、「いつかはお母さんになりたい」という夢がそのまま続いているようだ。
ケーキ屋さんになりたい、トリマーになりたい、髪を茶髪にしたい、プラダのバッグが欲しい……。このような夢は、時間や価値観の変化とともにフェードアウトしていった。なのに「お母さんになりたい」だけは微動だにしない。

社会を継続させるための責任を、女性に背負わせている気がする

叶える、もしくは叶えられなくなるその瞬間まで持ち続ける欲望なのかと思うと、いよいよ怖くなってくる。取り憑かれでもしているのか?と、自分で自分を信じられない。
ある高校の友人は、出産について「女性の本能的な欲望」と言った。仕事や自分の人生に忙しくてもそれとは別個に考えるのは、遺伝子レベルの問題だと言いたかったのだろう。
でもこの考えは、あの忌むべき「女は子どもを産んで一人前」論を影でサポートする危険性を感じる。そうではない方向で、この謎の夢を紐解きたい。

考えてみれば、出産は太古の昔より神話扱いされることが多いテーマの一つである。
人口の半分を占める男性には想像しかできないからなのかもしれないが、どこか広大で畏敬の念を感じさせる行為である。
粗い言葉になってしまうが、確かに妊娠には男性が必要である。しかし、出産に男性は必要ない。そして育児にも男性は(本当は必要なのに)まるっきり影すら感じないことが多い。

科学の進んだ現代でも、出産のリスクが消えないことを考えても、女性1人で行うなんてなんという負担……。そして将来の社会を支える人間をこの世に誕生させる偉大さと、その後に待っている責任……。
ちょっとくらい男性と分け合えないのかなと思ってしまう。女性特有の能力なんて言って外野に回って、少子化だってこっちを睨みつけながら焦って、社会を社会として継続させるための責任を全て女性に背負わせている気がする。
そう考えると、出産って社会的な行為なのに報酬があまりに少ない。神話の力を借りて盛り上げるのにも限界を感じる。

自分の中にある「自由」に憧れているのかもしれない

先日、とある大学の授業で、この問いを進める機会があった。経済学のケイパビリティ・アプローチの応用である。
選挙権を手に入れたからといって、政治知識がないと本来の意味をなさないということ。これを出産に置き換えると、「出産する」という能力はあれど、そこに付随する知識や意思、将来の道筋がなければ、本来の「出産する」意味をなさないと説明できる。

本来の出産の意味ってなんなんだろう。
人を誕生させる神秘さ?国を支える人口補助?そうではない。「自分の生活を一変させる能力を行使するかしないかの自由」なのではないだろうか。
言うなれば、最大の自由になり得る能力。私は自分の中にあるこの自由に憧れているのかもしれない。だからこそ、言葉巧みに操って、それを確かな知識なく行使させる暴力性が許せない。
妊娠した瞬間に手を引いて「この先は女の管轄」と言い放つ奴。その自由を行使することに不安を覚えて、堕胎を希望するのを許さない社会。自由を自由として扱わせてくれないのなら、とてもじゃないが最悪の能力と呼ばざるを得ない。

私はいま大学院で母子家庭について研究している。それはきっとこの出産の話に繋がっている。
心から自由を行使した女性たちのその後を支えたい。彼女たちが選んだ人生を一変させるほどの自由を、最大の自由を選んだんですねって、微笑みながら支えたいのだ。神話や社会的責任で隠さずに。