「続けることが当たり前」の空手は両親による呪縛のようだった
空手は、私にとって一番長い習い事だった。
受験や就活の時期は除き、小学1年生から大学卒業まで地元の道場に通った。年数だけは重ねたので、形ばかりの弐段を持っていて、全国大会に出場したこともある。
ただ、空手はある種、両親の呪縛のようなものだった。
特に母親は「何にしても続けることが大事。続けないと、結果も出ない」という教育方針だった。
週2回の習い事と言ってしまえば、強豪校の部活と比にならない頻度だが、中高は受験まっしぐらの勉強させる学校だったので、身体中の糖分は全部頭にもっていかれるし眠いしで、身体面でも精神面でも、その他の余力はあまり残っていなかった。
帰宅すると、すでにリビングに道着が準備されていて、さぁ道場に行くのよ、と言わんばかり。
稽古時間が迫って家を出ないといけない時間になると、私と妹のどちらかは大抵駄々をこねた。
案の定、泣きわめく私たちに母親はすごい剣幕で怒っていたが、なぜ行かないといけないのかと聞いても「行きなさい」の一点張りで、何一つ理由や意義を教えてくれなかった。
自分で意味を見出せないものに向き合わなければいけないストレスは、相当のものだった。
仕事を理由に空手をやめた。でも、嫌いになったわけではなかった
そんな私が「もう空手はやめよう」と思ったのは、社会人になってしばらく経った時。
仕事に慣れるまで余裕がなかったのは確かだが、心の内には「仕事を理由に辞められるかも」という下心があった。
案外、母親は仕事が理由なら勿体ないけれど仕方ないといった様子で、彼女のなかで優先順位が変わったようだった。
だが、「やめます」と宣言することは、続けることと同じくらいのストレスに感じた。
師範になんと伝えたらいいのだろう。でも、このまま嫌々続けたくないな。
仕事にかこつけて、モヤモヤしながら足が遠のいた。結局、自分からきちんと言い出せず、道場から「仕事が忙しくて来れないならお休みしますか」と打診があり、乗っかる形になった。
恰好としては、自分でピリオドを打ったわけではなく、時と周りに身を任せた結果だったけれど、それでも十分な解放感だった。
振り返ってみると、親の強い言いつけを、自分の意志のもとに初めて破った出来事だったかもしれない。
私はたぶん、空手が嫌になったのではないのだ。
継続は力なり。
「やらない」より「やる」を選ぶべき。
こうした親の価値観に、これから先も純朴に従う自分から卒業したかったのだ。
「空手を辞める」と決断したあの出来事は、選択肢に「やらない」や「やめる」は存在してよいこと、どんな選択であれ自分の意志で決断してよいこと、を教えてくれた。
「やるべき」の価値観だけで動いても、納得しないと成功はできない
とはいえ、まだまだ頭の中に「やるべき」の価値観はこびりついていて、今も時々、「なにか資格を取らなければ」「痩せるために運動や食事制限をしなくては」と急に焦りや不安を感じることがある。
そんな時は少し落ち着いて、「それって無理してやらなくていいんじゃない?」の声を入れる練習をしている。
「やるべき」の価値観だけで動いても、そもそもなぜそれが必要なのか自分で納得していなければ、成功する確率はぐっと減るうえ、成し遂げられない自分に勝手に凹んでメンタルを消耗してしまうと学んだ。
一方で、もう一つ気づいたことがある。
一度「やるべきものではないんじゃない?」と見送ったものの、ひょんなタイミングで「あれ、ちょっと私、今これやりたくなってきたな」と身体がうずうずすることがあるのだ。
空手の例でいえば、「ちょっと身体を動かしたくなってきたぞ」と、一時期ボクシングジムに通い、コーチに褒められてまんざらでもないということがあった。
まぁ、ボクシングジムも長く続かずやめてしまったのだが、「気分ではなくなったんだな」と、自分の三日坊主も飽き性も、それはそれとして優しく受け止めることにした。
この先も、Must/Shouldより、Wannaの感情を大切にしていきたいと思う。