中学1年生の女の子が、クラスでのいじめがきっかけで教室の窓から飛び降り自殺をした。
みんなが登校するタイミングを見計らい、通学路に向かって体操着姿で飛び込んだ。着替えた制服は綺麗に畳まれていた。
まだ12歳という若さで、まだ幼いけれども大人になりつつある頭で、死ぬほど考えて考えて考えて、「やっぱり死のう」と決断したのだろう。
いじめられた経験がある私には、他人事と思えなかった
私は小学3年生から5年生までいじめられていた当事者として、このニュースが他人事とは到底思えなかった。特に3、4年生のときは5年間幼少期を過ごした韓国のソウルを離れ、日本のカトリック系私立小学校に入学し、色んな理由でいじめられた。
学校で決められた何百曲もの聖歌を覚えられない。決められた朝、昼、帰りのお祈りを覚えられない。学校にキャラクター柄の鉛筆を持ってくる。どれも学校の規則に従わないことがきっかけで起きた、いじめだった。
しかし、大人になって考えてみると、規則を守らないことへのいじめなんて、ただの八つ当たりにすぎないと感じた。
いじめている側は、私のルール違反に対して怒っているとは限らず、ただむしゃくしゃする気持ちを誰かにぶつけてすっきりしたいから、私の弱みを見つけていじめてきた可能性が高いのだ。
常識的に考えて、転校生が急に何百曲という聖歌をいきなり覚えるなんて無理だし、3種類の長いお祈りをすぐに丸暗記するなんて、できっこない。しかも聖歌は冊子があったが、お祈りは文字化されたプリントをもらったことがなかった。いじめてる時間があったら、私に歌詞やお祈りが書かれた配布物を最初からくれればよかったじゃないと思う。
このようにいじめの原因は、必ずしもいじめられている本人が悪いとは限らない。たまたま出会った人たちがムカムカしていて、自分がその環境に居合わせてしまって、サンドバッグにされてしまうのだ。
私がお友達になって、彼女の話を聞いてあげたかった
幸い、小学生のとき、私はまだ「死」という概念を知らなかった。
韓国ではキリスト教の学校に長らく通っていて、良い行いをして神様を信じていれば天国に行けるという教えを聞いて育ってきた。しかし、「死」そのものについて教えられたり、自分で考えたりしたことがなかった。
中学校に上がってから、リストカットの存在を知り、自分も血を見ることで安心できるならやってみたいと思った。おそらくそこで初めて「死」や自傷行為について考えるようになった。
自殺した女の子も、私と同じ、12歳という年齢で「死」について深く考えていた。でももしかすると、もっと前から、「死」について長らく悩んできたのかもしれない。実行に移したのは12歳のときだったけど。
ここからは「もしも」の話になってしまうが、私がお友達になって彼女の話を聞いてあげたかった。でも私自身、自殺をすぐ考える傾向があるから、彼女を支えられるような強さを持っていないだろうな。小学校に心理カウンセラーがいるのかどうか、よくわからないのだが、親や周りの人の言えない本音を第三者に話してほしかった。
カウンセラーという赤の他人は、一番楽に気持ちを言える相手
一番良い相手はきっと心理カウンセラーだっただろう。臨床心理士の先生はヒアリングのトレーニングを受けているから、自分の言葉を真摯に受け止めてくれる。
心理カウンセリングにおいて、相談している本人を責めたり、内容を他者にバラす行為は禁止されている。だからカウンセラーさんという赤の他人は一番楽に自分の気持ちを言える相手となりうる。
それに、カウンセラーさんに自分の話をする中で、自分に起こっている状況をまとめて、自分自身に語りかけることができる。何があったのか。どういう気持ちになったのか。何が嫌なのか。話していくうちに少し冷静になって状況を俯瞰できる。
もしかしたら、自分がいじめられる理由は意味のわからない、理不尽な理由かもしれない。私が一方的に悪いわけではない。むしろいじめてくる向こうに問題があるんだ。
いじめてくる奴って、逆に可哀想だな。何かあったんだろうな。話していくうちに、頭の中でぐるぐると回っていた思考が一旦止まって、感情が少しずつ整理されていく。
あの自殺しちゃった女の子には、カウンセリングが必要だったのだと思う。誰かに話を聞いてもらいたくて、でも人に言うと迷惑がかかる、心配されると怯えて、いっそ死んでしまえば全て終わるのだと思ったのかな。
学校でのいじめがきっかけで自殺をする子供たちは後を立たない。どうかどうかより多くの子供たちが、自殺を図る前に一旦落ち着いて、自分は悪くないことを分かってほしいと願う。