正直、今はかなり楽しい。多くの人に恵まれたお陰である。
しかし、今いる周りの優しい人たちに出会えなくなってしまっても、戻りたいと思う時がある。それは私が小学校6年生の頃だ。

カウンセラー室にポスターを届ける仕事を、疑いもせず引き受けた

私は当時、保健委員会委員長を務めていた。卒業を控えた3月初旬。4時間目に体育があり、体育着から着替えることがめんどうだった私は、肌寒い季節を半そで半ズボンで過ごしていた。
給食を食べ終え、昼休みを温い(暖かい)保健室内で過ごしていた。凍てついた身体を溶かしていると、保健医のK先生は妙な依頼をしてきた。
「委員長さん、このポスターをスクールカウンセラー室に届けてください」
「わかりました」
当時の私は特に疑いもせず、その仕事を引き受けた。
スクールカウンセラーの先生はたまにしか来ないので「いつも閉まっている部屋」という印象しかなかった。1階の東側にある保健室を出て、3階の西側にあるスクールカウンセラー室に向かう。そしてドアをノックした。
「失礼します。保健委員会です」
「どうぞ」
中を開けるとかなり細長い部屋だった。畳を3畳か4畳ほどを縦に並べた感じの様に見えた。実際はもっと広かったかもしれない。だが、とにかく狭く、苦しく感じた。
ただ、校庭の方に位置していたため、太陽の光が良く入った。ぬいぐるみとボードゲームがたくさん置いてあり、何故だか知らないが洗濯板も置いてあった。何だか嫌な予感がして、すぐにでも出ていきたくなった。

何を話したのか覚えていないけど、もらったアドバイスは覚えている

「K先生からポスター届けるように言われました。机の上に置いておきます。それでは!」
口早に言い、逃げ出そうとする私にスクールカウンセラーの先生はぴしゃりと言った。
「稲荷さん、だったわよね?そこのソファに座って少しお話ししましょう」
ああ、終わった。逃げられない。私はぎこちない笑顔を浮かべてソファに座った。
昼休みのチャイムが鳴り、5時間目開始のチャイムが鳴った。話が終わったのは5時間目終了のチャイムが鳴った後だった。
私には後ろめたいことしかなかった。早く返してくれ、と願わずにはいられなかった。何を話したのか全く覚えていない。ただ、ひとつだけ覚えていることがある。
「今日話せて嬉しかったわ。本当はもっと早くにあなたと話したかった。ごめんなさいね。これから中学生になるけど、何か困ったことがあれば中学校のスクールカウンセラーさんに頼むのよ」
私は6時間目開始のタイミングで教室に戻ったのだが、担任は私に何も事情を聞かなかった。ただ、少し哀れんだ顔をしていた。きっと担任かK先生か、どちらかがこのカウンセリングを仕組み、連絡を通したのだろう。
時が経ち、中学2年生の2学期に事件が起こった。
三者面談で母親が暴れたのだ。16時に始まった面談が終わったのは19時。3時間の激闘。母は女性の担任に私に関する自身の妄想を吹聴し、しまいには担任を罵倒。担任は母親に応酬し、現場は女の熾烈な争いを極めていた。そしてその出来事がきっかけで、私は1年間スクールカウンセラー室に通わされる事態に陥った。

あの時カウンセラーに相談できていたら、生活は一変していただろうか

明らかにおかしいのは母親だ。しかし、大人たちは私の意見を一切聞かなかった。言わせてくれなかった。
私は家族に「外面良子」と言われるぐらい外面が良い。周囲にある程度可愛がられるための愛想は良い方なのである。だから私はカウンセリングで適当なコミュニケーションを取っていたが、母親に殴られていること、母親に教科書を奪われて返されていないこと、家族は誰も私の味方になってくれないこと、上履きに画鋲が入れられていたこと、私の持ち物がゴミ箱に捨てられていたこと、クラスメイトに逆恨みされていること、LINE上で私のいじめ計画が練られていたこと、いつも休み時間をトイレの個室で過ごしていること、学校の教師が贔屓の生徒にしか「5」を与えないこと、何も言わなかった。
大人は敵だった。そして私は何も言わず、そのまま中学校を卒業した。
高校から現在までは楽しく学生時代を過ごしている。だが、今日まで何も問題は解決していない。母親とは相変わらず仲が悪く、当時私をいじめていた奴ら誰にも謝罪されていない。実は小学6年生のスクールカウンセラーの言葉を思い出したのは高校生になり、同級生たちのお陰で明るくなれた頃だった。
じゃあ、あの時、この記憶を思い出し、スクールカウンセラーに相談できていたら?1年間の猶予を無駄に消費しなかったら?私の生活は一変していたのだろうか。
今も時々、「あり得たかもしれない」可能性の存在を夢想してしまう。