私はあの瞬間を絶対に――絶対に忘れないと誓った。そして、もう自分に嘘をつくのはこれっきりにすると約束した。

高校時代、私は演劇をしていた。今から思えば演技が好きというよりは、誰かの注目を集めるのが好きだった。
でも、自ら教室で手を上げて目立つようなことはしたくない内弁慶な私。そんな私にとって台詞という大義名分があり、目立てる舞台の上は心地よかった。
そしてそんな私が将来の夢に「声優」を掲げるのに時間はかからなかった。体に自信の無かった私は、声だけで演技できる声優の仕事って良いな、くらいの軽い想いで両親に進路を告げ、紆余曲折あり、専門大学を諦め私立の芸術学科のある大学への入学を決めた。

事務所の扉を開いて、「ココじゃ売れない」と直感的に感じた

大学生活に慣れた頃、私は声優という職業に触れたくて、大阪の小さな事務所に通うことにした。
忘れもしない、事務所の扉を開いて中年の男女が数人いる教室を見て、「あ、ココじゃ売れないだろうな」と直感的に感じた。だけど、私の軽い想いとお財布と比例している事務所はソコしかなかったので、勉強の為通っていた。
やがて、若い私はそこの社長に気に入られることになる。そして、じっくりと洗脳されることとなった。

洋服も行動も全ての基準が社長の好みになり、社長に嫌われたら私は声優になれないと思い始めた。最初にココじゃ売れないと思っていたのに、いつの間にかそんな思考になっていた。
何もかも選ぶ時には社長を思い、間違っていないか心のどこかで怯える日々。社長は事務所を出て行った人を悪く言った。過去の栄光を延々と話し続けた。
若い私は全て真に受けた。そして、社長は私が真に受けることを分かって話していた。「だから、俺から離れるなよ」とずっと言われていた。
心のどこかで怯えはしていたものの、社長は私を贔屓にしてくれていたし、それを周りに見せつけていたから、元来注目を集めたい性格の私にとって心地よかった。食事にもよく連れだしてくれ、お金持ちの社長が集まるパーティにも出席させてくれた。そういう場所はあまり好きじゃないけれど、楽しそうに見せる術だけは鍛えられていたので、緊張しながらもこなし続けた。

成功者の彼が話す内容は、何故か私が理解している大切なこと

そんなある日、事務所とは全く別の繋がりで私は億万長者に出会った。と言っても彼の通帳を見せてもらったわけじゃないから、本当に億稼いでいるかは分からないけど、とりあえずとんでもない成功者と呼ばれる人に出会った。
その人の話す内容は、言葉にならないけれど何故か私が理解している大切なことだった。
例えば、自分に嘘をついた時の弊害とか世界の成り立ちとか、過去と未来は「今」にしか存在しないとか……そんな雰囲気の不思議な話。
彼は一言も過去を語らなかった。彼は一言も私を強制しなかった。依存で成り立っていた当時の私は、彼に自分は今何をしたらいいか聞きたくなったけど、チラリと社長が浮かんで浮気のような罪悪感が芽生えたので口を噤んだ。
ただ1つ分かったのは、今の私は「私が誰だか分からない」ということだけだった。

それから少しずつ私は社長から距離を取った。気が付けば自分の好きな色さえ分からなくなっていた。自分で決めることが出来なくなりつつあった。
離れていく私に気が付いたのか、社長はそれ以降アプローチが顕著になり、「この事務所を継いでくれ」「期待している」「俺が育ててやったんだ」と言葉が強くなって、そして、ある時突然、抱きしめられた。

抱擁されたのに力が入っていない自分の腕を、絶対忘れない

ハグではない、恋人同士の抱擁のような……。何の脈絡も無く2人しかいない事務所で。私は茫然と社長に抱きしめられた。
そして、視線を下にずらして自分の右手をぼんやりと見た。全く力が入っていないその腕を見て、私は泣きそうになった。突っぱねられないこの腕が、嫌に印象に残った。
「あぁ、私絶対忘れない。今日、社長を拒否できなかった私を絶対に忘れない。こんなに自分に嘘ついてこんなに自分を傷つけて、好きも嫌いも分からなくしてしまった私を、絶対忘れない」
強烈にそう思った。

その後の進路で私は事務所に就職が決まっていたけれど、それを蹴って全く別の仕事に就いた。辞める時は辞める時で、1時間カフェで怒鳴られ続けるという経験をさせていただいたけど、自分を守ると決めた私にはあまり効果が無かった。
ただ説教の最後、「な?だから俺と一緒にいた方がいいだろう?」という言葉を吐いて私を置いてさっさとカフェを出て行った社長を追って、「お世話になりました!」と頭を下げた瞬間、私の世界に色が戻ったような気がした。

それから私は少しずつ少しずつ自立していった。洗脳を解き無意識を変え、自由な意識を得るのは長い道のりだけど、私は怒鳴られても頭を下げてでもこの道を選んでよかったと心から思える。
そして、その道を輝くものにしてくれた社長にも、今は感謝が出来ている。