わたしがこの1年で最も「えっ?」という強い違和感を覚えたのは、昨年夏のニュース。
2021年7月22日、東京オリンピック開会式で演出担当だった小林賢太郎氏が、過去のコントでの不適切な表現により批判され、その任を解かれた。開会式のまさに前日だった。

正直、政治やジェンダー関連のニュースに「えっ?」と思うことは、最近ほとんどなくなった。幼い頃からの刷り込みで、「この分野には期待しても何もない」と諦めがついてしまっているからだ。
ところがお芝居やお笑いに対して、わたしはまだたくさん期待を抱いているらしい。だから、このニュースが出た時、わたしの心は乱れた。
何で、どうして、違うのに、と叫びたかった。

報じられない「ユダヤ人虐殺ごっこ」と発する男の人物像

彼のかつてのユニット「ラーメンズ」のコントの中で、「ユダヤ人虐殺ごっこ」という強く、惨たらしい言葉が出てきたのは事実だった。
それを知ったユダヤ系人権団体が抗議声明を出し、各社がそれを報じた。五輪開会式に関わる別の辞任騒動が既にあったこともあり、小林氏に開会式から離れるよう求める世論が高まるのにそう時間はかからなかった。

わたしはテレビやネットで繰り広げられる一連の流れを見ながら、強烈な違和感を抱いていた。「違うのに」と言いたかった。
多くの人は、問題のコントで描かれていることを知らないまま、批判に流れているように見えた。
コントの中で、「ユダヤ人虐殺ごっこ」というセリフを発する男は、清く正しい人物として描かれてはいなかった。
トガりや逆張りを正義と勘違いしているイタい若者。
あるいは、チープで間違った手段でしか自分の特別さを演出できない未熟者。
あるいは、まっすぐな善をまっすぐに表現する幼児教育番組を侮っている、浅はかな業界人。
あの愚かなセリフを発していたのは、そのように描かれた人物だった。決して「ユダヤ人虐殺」を直接笑う構造ではなかったのだ。

「そうじゃない」と思いながら、ほとんど何もできなかった

この前提をきちんと伝えてくれる報道はあの当時、とても少なかった気がする。
「登場人物の愚かさを表すための表現だとしても不適切だ」という指摘ならわかる。でも、その議論に至る前に、「ユダヤ人虐殺ごっこ」というワードがそのインパクトの強さ故に独り歩きして、そればかりが取り沙汰された。まるであのコントが、ユダヤ人虐殺を肯定しているかのように。
「そうじゃない」と思いながら、わたしはほとんど何もできなかった。ちょっと周りの人に「これ違くない?」と愚痴ったくらいだ。
一気に加熱した世論と報道はその勢いのまま、氏を演出チームから追放した。

開会式当日、Twitterは盛り上がっていた。思いがけないゲスト。ピクトグラムなどの素晴らしいパフォーマンス。開催までに色々あったオリンピックだけれど、いざ始まればやはり祝祭ムードは明るく、コロナに疲れた人々の慰労となっていたように思う。

画面を消した。わたしなりの気持ちの折り合いの付け方

でも、わたしは開会式をテレビで見ることはしなかった。盛り上がるタイムラインを見て、そっと画面を消した。抗議とまではいかないけれど、わたしなりの気持ちの折り合いの付け方だった。
開会式が話題になればなるほど、モヤつきと怒りが育つようだった。
開会式の制作クレジットに小林賢太郎の名前はなかった。氏が生み出した(であろう)パフォーマンスは概ね好評だった。それは違うんじゃないの?と思えてならなかった。

あのセリフがどういう文脈で出てくるのか、それを解説してくれる報道がもっとあれば良かったと思う。
その上で、「いや、どんな文脈だろうと、笑いに還元すべきテーマではないのだから、処分は当然だ」と主張されるのはわかる。
ただ、正しい前提が共有されず、正しい状態での議論にすら至らなかった、ように見えた。それがとても悲しかった。
そして議論もままならぬ中、一人の名前が作品から消され、持ち主不在の表現だけが残り、世界的舞台で披露されるために借りパクされた。それは許されるのだろうか。

意図せぬ形で表現が伝わることの怖さ、正しく伝えることは難しい

これだけ熱く書いたけれど、わたしは別にラーメンズや小林賢太郎のファンではない。ただ一般的な舞台好きとして、その大きさをなんとなく知っている程度にすぎない。
それでもお芝居やお笑い、人の心を色々に動かしてくれる全ての表現活動を愛好する者として、一連の出来事はショックだったのだ。
意図しない形で表現が伝わってしまうことの怖さ、無力感。
報道が芸術表現を正しく伝えるのは、本当に難しいのだと思う。報道は多くの人にわかりやすく、できるだけスピーディーに情報を伝えることを使命の一つにしている。だから切り取りや編集は報道に必要不可欠だ。
だけどそれは、「全文脈を丸ごと飲み込め」「そこから感じることは個人個人バラバラで結構」という芸術表現系のことと、全く相性が悪い行為のように思う。

全体から切り取られた表現に、なんの意味があるのだろう。
切り取りを切り取りと気づかない鈍感さの、なんて怖いことだろう。
だけど、「切り取らず、編集しないニュース」のいかに無茶なことか。
どうすれば良いのかとか、どこが落とし所なのかとか、書いていてもよくわからなくて、わたしはずっと考え続けている。結局、思慮深くなること、考え続けることしか対処法はないのだろうか。