ふと、思う。
人生には忘れたくないことより、忘れたくても忘れられないことのほうが多い。
忘れたくないと思っていることは、いつかは忘れてしまいそうなことだからである。
月火水木金土日と忙しなくめくられるカレンダーと一緒にどこかへ吹き飛ぶまいと、念入りに貼りつけている。
今日は今にもどこかへ吹き飛んでしまいそうだったことを、こうやってエッセイにすることで貼り直そうと思う。

私に振り向いてくれることがあるのだろうか、と思うほど、とても優秀な人を好きになったことがある。
至極平凡な人生を歩んでいる私には、出会うことができなくても不思議ではない人だった。
そんな人と幸運なことに出会い、LINEを交換し、やりとりするうちに私は彼を好きになっていった。子どもの頃、お気に入りの薄青のビー玉に映った世界をずっと眺めていた、あの初夏のときめきに似ていた。
1ヶ月以上、毎日LINEのやりとりをして、イタリアンレストランでのランチデートの約束をした。

私の忘れたいことは、その彼との恋愛である。
そして、このデートの前夜が私の「忘れたくないこと」である。

◎          ◎

デートの前夜、私は私ができる最大限の贅沢美容を自らに施した。
いつもより高級な化粧水、乳液、クリームにパック、美容液を惜しげもなく使用したり、スチーマーを引っ張り出し電源ボタンに久しぶりに触れたりした。
髪は上質なシャンプーやトリートメントを使い、ドライヤーで髪を乾かす際は手ぐしではなく、丁寧にブラシを使いながら。
体は誕生日プレゼントで貰ったものの使っていなかった、少し甘いバニラのボディクリームを塗りながらマッサージをした。
今までいくつか恋に落ち、デートをしてきたけれど、恋愛に少しドライな私がここまでしたのは初めてであった。
とにかく、浮かれていた。
反面、どこかで明日が最後になるかもしれないから後悔のないように、とも思っていた。
家族も思わぬ優秀ボーイとのデートに浮かれていて、幸せと潤いに満ちて甘い香りのする娘を9時には寝るように促した。

翌日、人生で1番可愛い私ができあがっていた。
待ち合わせ場所には40分前に到着しそうだったが、彼も「フィー子ちゃんに緊張して、もう着きそう」らしく、予定より30分早くデートが始まった。

◎          ◎

結果的に私と彼はある意味、その日が最後になった。
それから何度か彼と2人で会ったが、今からと言われて私が会いに行く……そんな遊び方だった。デートの約束は存在しないので、当然デートの前夜も存在しない。
現在は彼と連絡をすることさえない。SNSもブロックされている。いい加減、忘れたい。
LINEのトーク検索で「可愛い」や「幸せ」を入れて、彼からかつて来たLINEを見てにやにやするのも止めたい。

でも、あのデート前夜は忘れたくない。
彼とのLINEもデートの日の写真も、見えるものとして残っているけれど、あのデート前夜の浮かれた甘い香りはどこにも残っていない。あの夜のすべては私の記憶の中にしかないのだ。
何故、私はあのデート前夜を忘れたくないのか?
まず、後にも先にも、あの夜以上のデート前夜が訪れなかったためである。
といっても、私は恋多き20代独身オンナ。こんなところで、くたばってたまるか。必ずや、あの夜以上のデート前夜を見つけてやる。
そして、これが最大の理由なのだが、あのデート前夜だけが彼との恋愛のなかで疑いようもない真実だからである。

◎          ◎

後から知ったのだが、彼にはすでに彼女がいた。
あの1ヶ月間のLINEのやりとりのなかにも、早めにスタートしたデート中にも、自惚れかもしれぬが、彼からも私と同じ「浮かれ」を感じた。
彼がどんな気持ちで私と連絡やデートをしていたのか、私には分からない。
私が彼の告白に、考えさせてなんて意味の分からぬことを言わずに、すぐ首を縦に振っていたなら、彼は私に乗り換えるつもりだったのかもしれない。
はたまた、私は遊ばれていたのかもしれない。

彼の言葉や行動、表情……疑えばキリがない。疑えば疑うほど、甘くて爽やかな思い出は、ビー玉のなかで湾曲して醜く匂っていく。
あの夜は違う。
確かに、彼のすべてが嘘ならば、あのデート前夜の私は可哀想で間抜けな女の子だと思われてしまうかもしれない。しかし、私は彼の甘い言葉や行動に浮かれて、私の人生で最高のデート前夜を過ごすに至ったわけではない。
彼の前向きで涼しい顔をしているのに努力家で……。そんな魅力と、得体の知れぬ何か(得てして恋愛とはそんなものであると思っている)に突き動かされて、私はあの夜を過ごした。
私にもあそこまで浮かれるほどの恋愛ができるのだ。その証である、あのデート前夜を忘れたくない。

私は忘れたいことを忘れるためにエッセイを書くし、忘れたくないことを忘れないためにエッセイを書く。私はこれから、何度もこのエッセイに戻ってきては、あのデート前夜を念入りに心に貼り直したい。