自称「やるべきこと」なのに、気分が「ノらない」と割と凹む

元々小心者の私は、外的要因が強かったり、強制力を伴ったりするものは、必然的にやる気になる(ならざるを得ない)。そういった類のものは、期限が設定されていることが多いし、怠ったことで私が不利益を被ることが明らかだからだ。
問題は、強制力もないし、やったところで短期的かつ大きな見返りがほぼ期待できない執筆活動(特に書籍などの長期間の忍耐を要するもの)を行うときである。元来文章を紡いでいくことは、私が心から好きだと言える数少ない行為だけど、そんな私にも執筆に気分が「ノらない」こともある。
机に向かっても、気付いたら意味もなくスマホをいじってしまう。軽い気持ちで見始めた動画も、気付けば数時間、次から次へと見ていた。
誰かに迷惑をかけるわけではないし、やらなかったとしても私自身が不利益など被らないような自称「やるべきこと」でしかない。それなのに、これほどまで捗らないと、割と凹んでしまう。そしてそれをわかっていても、くだらない時間潰しをやめられない自分のことが悲しく思えてくる。

「ノれない」ときは、「執筆にたまたま向いていない時間」なのだ

自宅だとダラダラしてしまうことが多いので、あるときから、ファミレスなど場所を変えて作業する機会も持つようにした。
確かに、人の目もあるし、滞在できる時間も限られるし、目の前に散らかった書類も干しっぱなしの洗濯物もないから、自宅よりはよほど集中しやすい。
それでも、である。どうやらWi-Fiがある限り、私はどこまでも自分に甘くなれてしまうらしい。そこまでして「ノれない」ときは、ドリンクバーの空のコップは増えても、原稿の文字は悲しいくらいに増えない。
そういったことは、1度や2度のことではない。そんなやる気のない自分にいらつくことももちろんあった。が、今は「そういうときもあるよね」と割り切って、無理にタイピングを進めないことにしている。

ではどうするのかというと、他の書き物に目を向けたり(他の章ならスラスラ進められることもあるし、自著の執筆が進まなくても、『かがみよかがみ』への投稿文ならサクッと作成できることもある)、それも無理そうなら執筆すること自体、しばらく諦める。
「ノれない」ときはおそらく、「何らかの理由で、執筆にたまたま向いていない時間」なのだと思う。だから、そこでタイピングを進めたところで、そこには私の文章ではない何かが出来てしまうような気がするのだ。そうしてまで執筆を進めることに執着する理由が、私には見当たらない。それに、一旦忘れた頃に再び取りかかると、あれほど難しく思えた続きの文章の作成も、嘘のように進むことがあるものだ。

創造力は気まぐれな生き物のように、これからも私を翻弄し続ける

逆にふと、自分でも思いがけない瞬間にスイッチが入って、溢れんばかりの創造力に突き動かされ、手が止まらなくなるときもある。誘惑の多い自宅だろうと、「ノる」ときは時間を忘れて「ノる」ことができるのだ。
「ノれない」ときの辛さが一転、ひとたび「ノれた」ことによって一つの作品の誕生へと少しでも近付いていく喜びは、何物にも代えがたい。この快感は、何度味わっても飽きることはないだろう。
自分だけの日記帳に胸の内をしたためることを一番の趣味としていた頃も含めると、私は長期にわたって執筆と付き合ってこられたほうだと思う。そしてそれは、無意識のうちに保ってきたこの適度な距離感のおかげなのかもしれない、と思う。

私の創造力は、気まぐれな生き物のように、これからも私を翻弄し続けるだろう。でも、やる気が出なかったり、スランプのような時期があっても、自己嫌悪に陥らず、それも私のスタイルなんだと受け入れたい。
書きたいことを、書きたいときに。この姿勢で、これからもゆるく執筆活動を続けていけたらと思う。