もう10年ほど前に、あるニュースがテレビで流れた。それは中学生が駅に入ってくる電車に飛び込んで自殺したニュースだ。
青少年の自殺が世間を騒がせていた時期で、また中学生の自殺はそれでも珍しかったからだろうか、全国区で放送されたようだった。
ある自治体では、遺書にいじめが原因と示唆する内容があったにもかかわらず、その遺書や校内アンケートなどを隠蔽したり、自殺といじめの因果関係を認めず保身に走った教職員や教育委員会が存在したことにより、特に教育委員会は悪の権化のような取り上げられ方をしていたように思う。
何を隠そう、私の父は教育委員会の職員だった。そして、その中学生の自殺は父の勤務管轄内での出来事だった。
父が関わった事件で、安易に悪と決めつけるネットの恐怖を体験した
父はそれなりに高い役職にいたのだろうか、全国放送のニュースに教育委員会の担当者として記者会見の矢面に立ち、「原因解明に向けて全力を尽くしていきたい」という主旨の事をテレビに向けて語っていた。
やつれた顔で夜遅く帰宅した父は私に、今回の事件でネットでどう言われているのか調べてくれないか、と私に頼んできた。父が私に頼み事をするなど非常に珍しいことだったので、只事ではないんだなと思い、ネット掲示板やらSNSやらを徹底的に検索してみた。その結果はやはり、教育委員会はまた隠蔽するつもりだとか、原因なんていじめに決まっているのに何が原因解明だ、といった教育委員会に対する根拠のない誹謗中傷にあふれていた。
父はそれから半年間ほど、外出する時はマスクにサングラスだった。結局、その事件の自殺の原因は学校でのいじめではなく、家庭内の問題やその子が抱えていた障害が原因だろうという結論に達したという。しかし、そうした公表に対しても、隠蔽という誹謗中傷が噴出したことは想像に難くない。
確かに、何が本当の自殺の原因かなんて、遺書に明記でもされない限り完全に解明することなど不可能だろう。だが、一般の部外者がニュースという表面的な情報だけで真実を断定したと誤認して、誠実に働いているかもしれない多くの関係者を単純な思考回路と情報検索のみで悪であると叩く構図は、ネット社会の恐ろしき悪習であると感じた。
昨今ではよく言われているが、自分の安全なところからネットで手軽に悪人だと思われる人を叩ける時代だ。しかも、彼らが悪人だと判断する根拠は、メディア報道の薄っぺらい情報だけなのである。
これからの時代は、ネット社会、国際社会がさらに進んでいくだろう。だからこそ、物事も複雑になってくるし、自分の価値観が絶対などという思い込みは危険であると私は思う。私たちは物事をより多面的、多角的に観察しなければならないだろう。
それ以来、ネット社会の善悪二項対立の構図が引っかかっている
現在の日本は、ほぼ100%の識字率を誇っている。識字率が高いこと、すなわち誰もが文章で表現できることは素晴らしいことであると、現代の私たちは信じて疑わない。だが、中世の知識人たちの中には、識字率は低い方が良いと考えていた者もいたようだ。
なぜなら、誰もが文章を書くようになれば、くだらない言説が世の中にあふれ、真に重要な言説が埋もれてしまうからだという。ネットの世界も同じではないだろうか。
私たちは気付かぬうちに急速な情報科学の発展の恩恵に預かり、誰もが膨大なネット空間の中で表現する自由を享受した。だが、新たに誕生したネット空間には慣習も法律もない。そして、ネット空間で私たちは何が許されて、何が許されないのかをよく知らないのだ。
なぜなら、私たちにはその教育すら与えられていないからだ。よって、人間の本来の特性がネットには強く出てしまうようになる。
憎悪や嫉妬という感情は、人間のごく自然な感情である。そして、人間は物事の評価を曖昧にしておくことを好まない。その結果、極端な善悪の二項対立ばかりを好む単純なネット社会の論調が生じてしまい、この傾向はこれからの社会を長くむしばむことになるかもしれない。
あのニュースに付随した出来事から、私にはそんなことがずっと引っかかっている。