足が遅いから。運動会の徒競走で注目されるのが恥ずかしかった
私は生まれてこのかた、スキップができた試しがない。水に入ればカナヅチで、サッカーのドリブルをするとボールが明後日の方角へ飛んでいってしまう。
そう、私は運動音痴なのだ。
小学校の頃、体育の時間が一番嫌いだった。何をしてもうまくいかない自分に腹が立ち、友達に運動ができないことをからかわれるのが苦痛だった。
そんな私が1年のうちで、最も憂鬱になる日が運動会だった。両親をはじめとする多くの観客の前で様々な競技が催されていく運動会では、運動が得意な人がヒーローで、私のような運動音痴はできるだけ彼らの影の中で小さくなるべきだと思っていた。
それでも、応援合戦や綱引き、玉入れなどの団体種目は、まだ楽しむことができた。友達の波に紛れ込んで、なんとか目立たないようにその場をやり過ごすことができた。
しかし、徒競走だけは、どんなに策略を巡らせても自分の運動音痴が人目にさらされてしまう種目だった。それなりに一生懸命走っても、見える景色はいつも通り、クラスメイトの白い体操服を輝かせて駆け抜ける後ろ姿で、みんながゴールしても私はまだまだ走り終わらない。
誰かの「がんばれ!」という声を皮切りに、私に向けられた声援がそこかしこから送られてくる。やっとの思いで走り切ると、会場が拍手に包まれる。そんないつものお決まりパターンが、私はとても恥ずかしかった。
自分の思い通りに動かない足を憎んだし、徒競走なんてなくなればいいのにと、運動会が近づくたびに思った。運動が得意な4つ下の妹は、毎年のように赤白帽子に1等と赤い文字が印刷された金色のシールを貼ってもらって誇らしげに帰ってきたので、余計に惨めな気持ちになった。
この状況をなんとか脱却したいと思い、1人でランニングをしたり、速く走ることができるフォームを研究したりした。足が速くなりたいという気持ちは誰にも負けなかった自信がある。しかし、ドラマの主人公さながらの信じられないような奇跡が起こるはずもなく、懸命な自主練の成果は出なかった。
小学生最後の運動会でも、私は徒競走でビリだった。妹はその年も1等をとった。
「負けたんじゃない。みんなに順位を譲ってあげたんだよ」
家に帰ってから、6年間を共に過ごしたおかげで少し色褪せた、まっさらな自分の赤白帽子を見た。「ああ、やっぱりビリだったな」と人知れず考えていると、いつの間にかそばに来ていた母に、こう言われた。
「今日の徒競走は、負けたんじゃなくて、みんなに順位を譲ってあげたんだよ。さすが私の子ども。お母さんの優しさを出血大サービスして譲ったかいがあったわ」
私は、子供ながらに目から鱗が落ちる思いだった。
母の言葉を聞いた瞬間、なんだかはっとして、それからじんわりと、胸の奥から何か温かいものが湧きだしてくるのを感じた。今まで感じてきた劣等感や不安が、空中で粉々になってはじけたような気がした。
気が付くと、はらはらと涙をこぼしていた。
その日から、私は徒競走が嫌いではなくなった。中学校の体育祭でも徒競走はあって相変わらずビリだったが、自分なりに楽しむことができるようになった。どんなに苦手な種目でも、誰かの陰に隠れずに堂々と参加した。順位なんて気にならなくなった。
運動以外にも、今まで生きてきた中でたくさん、他の人に先を行かれることがあった。でも、私は負けたとは思わない。悔しさも込み上げてこない。
誰かに抜かされるたびに私は思う。
「今、あの人に私のなにかを譲ったんだ」
「譲る」というと、自分の一部が他の人に渡る気がして少し心細くなるけれど、私も自分の気づかないところで、たくさん他の人の一部をもらっているんだと思う。そうやって、お互いがお互いを補い合って、この世界は上手く回っているのかも知れない。
うん。譲るって、案外悪くない。