少し前に、とても素敵な男性に出会った。
初めて会ったその瞬間に、彼の優しい雰囲気に包まれたのを感じたくらいだった。
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前回の恋愛から1年半経った頃、友人に勧められた出会い系アプリで知り合った人だった。
正直乗り気ではなかったし、物件探しのように人から人へとスクロールするのは、苦痛を伴うくらい嫌いだった。そんな酷くテンションが上がらない中で、メッセージをやり取りするようになった人が彼だった。
1年半という空白の期間が長いのか短いのかは、コロナの影響もあって判断しづらい。ただ確実に言えることは、久しぶりに人の優しさに触れたということだ。身体的ではなく、精神的に誰かの優しさの内側にいる心地よさ。これを久しく忘れていた気がした。
その優しさの内側にいる感覚を与えてくれるのは、何も恋愛対象者のみではない。もしあなたが近所のカフェに居心地の良さを感じるのなら、それこそ誰かの優しさによって緻密かつ繊細に作り上げられた空間であるということ、つまりは優しさの内側。
何も難しいことではないのだが、この感覚は当たり前になった瞬間に忘れてしまう。
親の疎ましさを感じた思春期、その青さを知るのはいつだって一人立ちをした時である。全てを曝け出した相手への甘え、わがままな自分を責めるのは別れを告げた後なのも一緒。
この優しさの内側にいる感覚を、真空パックにでも入れておけないものなのだろうか。忘れる前に、当たり前になる前に、そっと開けて思い出せたらいいのに。
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そんなことを思ってから暫くした後、友人と性癖について話す機会があった。話が深まっていく内に、「寝取られ妻」というジャンルがあることを知った。
文字通り、夫婦が相互の合意のもとで、妻が他の男性と性行為をするというもの。正直、私はそのジャンルを聞いた時、理解ができなかった。その夫婦は本気で愛し合っていないのではないかと不安になった。
自分の妻が他の誰かに抱かれているのを見ると興奮するのか……、もしくは妻は夫以外に抱かれたいのか……、この感覚に歩み寄ることは難しいかも……とも思った。
しかし、その友人の意見で新しい見解が開けた。この行為の真の目的は「夫婦お互いへの愛の努力」と言うのだ。
お互いがお互いの身体に飽きてしまった、しかし、これからもこの人と一緒にいたい。お互い知らん顔で不倫をすることもできる。
でもそうではなくて、真っ直ぐにこの気持ちを伝え合って、なんとか他の道を探すという選択故の解決策。
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……もしかして、これこそが純愛なんじゃないか。当然、理解の範疇を超える人だって、理屈は分かっても実践は難しい人だっている。それはそれでいいと思う。
ただ、この解決策は、一言に愛の欠如だと批判できない美しさがある。まさしく、夫婦がお互いをお互いの優しさの内側に置き続けた結果とも捉えられる。
簡単なようでとても難しい「優しさの内側にいる/置く」という行為。先入観や当たり前でいとも簡単に忘れてしまう。だから思い出した今、敬意をもって言葉に変えておきたい。
性懲りも無くまた忘れてしまうのだろうが、何度も忘れて思い出してを繰り返しながら、今その中に居られることに感謝して生きていく。
よし、思い出させてくれた彼に連絡をしよう。