世の高校生たちが下校をはじめるころ、私は坂道を登って登校していた。西陽が頬にあたり、自分の影が黒々と伸びる。
学校へ着くと、まず食堂へ行く。簡単な給食が用意されており、授業の前に腹ごしらえをする。
なんせ私たちはお腹がぺこぺこだ。労働してその足で学校へ来るのだから。

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定時制高校。
いろんな人が、いろんな事情で、4年かけて高校を卒業するためにここへやって来る。
単純に学力の足りない者。
いじめを受けて小中学校へまともに通えなかった者。
突然、両親がいなくなった者。
疾患のある者。
親が生活保護を受けている世帯はいくつもあった。

私は17歳で定時制高校へたどり着いた。
高校生活といえば、学校帰りにマックに寄り、カラオケへ行き、一緒にテスト勉強をし、休みの日には仲の良いグループでお出かけでもするのだろう。

私たちはちがった。
バイトをいくつも掛け持ちし、あるいは正社員として働き、各々忙しい生活を送っていた。

学校が終わると、終電に間に合うように急いで帰った。田舎なので終電が早い。
間に合わない日は、同じ方向へ帰る先生が車で送ってくれた。
アルバイトを探していると言えば、先生たちが良さそうなところを斡旋してくれた。
職員室へ行けば、先生の私物であるお菓子やお茶を出してくれた。
夜の職員室は、温かかった。

授業中は真面目に授業を受ける者と、そうでない者に分かれた。
これから夜のバイトへ行くためにコテで髪を巻き、鏡を見ながら化粧をする女の子たち。
全日制では見られない光景だろう。
そういうことが許容できない先生は、やがて全日制の学校へと転勤していった。

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印象的なのは、体育祭である。
定時制のくせに、一丁前に体育祭があるのだ。
夜、日が沈んだグラウンドで、障害物競走や玉入れなんかが行われる。
女の子たちは知っていて、キティちゃんの健康サンダルで登校してくる。
そして彼女たちは、裸足になって走り、笑っているのだった。
夜にうるさいと近所から通報があったと、パトカーがやってきた年もある。
みんなで大笑いした。

学年が上がると、年上の後輩もできた。
仕事用のトラックで登校していたので、荷台に乗せてもらって帰ることもしばしば。
先生を殴ってやめた子、点数が足りず留年した子、学校へ来なくなった子。
どこへ行っても問題児だときっと思われるだろう。そんなやつは社会へなんか出られないと。

けれど、私たちが普通の高校へ進学できなかったのには、それぞれきちんと理由がある。
今でこそ毒親、親ガチャ、アダルトチルドレン、ヤングケアラーなんて言葉が広まってきたが、あの頃私の周りには、自分を含めてそんな者しか居なかった。

そして私が2年生の時、母は突然仕事を辞めてしまった。再就職もしなかった。
お金を貸してほしいと言われた。
進学に、本当は6年制の大学を希望していたけれど、6年間も奨学金だけでは賄えない。
実習費も半端ないと知っていた。
私はやりたいことよりも、やれることの選択をした。
もちろん選択をしたのは自分だ。
先生からの助言で、高校生が受けられる給付型の奨学金を申請し、進学先の交通費としてこつこつ貯めた。
あの時の先生の助言には感謝しているし、素直に打ち明けて良かったと思っている。

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しかし、これが未成年の子どもに課せられるべき問題だろうか。
きっと、みんなそんなことを抱えていた。
自分が抱えていることに気づくことができれば、まだ良かった。
クラスメイトは、表面的には明るい子たちが多かったが、実際どうだったのだろう。
あの時、皆生きていくのに精一杯だった。
私たちを支えていたのは、紛れもなく定時制高校というシステムだった。

親を頼ることの出来ない子どもがどれだけいるだろうか。
そこに気づいて手を差し伸べられる者やシステムが、どれだけ機能しているだろうか。
定時制高校へたどり着けた者は、マシだろう。卒業できた者は、もっとマシだ。

部品となり生産し消費し、政治や経済の発展に余念がない資本主義社会に呑まれ、つまづいた者は何もないところへはじき飛ばされる。
なぜか飛ばされた者だけが、思考や行動の修正を求められる。
"健康なひと"は果たしてそのままでいいのだろうか。
健康、健全なんてものは、表面の形しか見ることができない者の思い込みではないだろうか。だとしたら、社会はそのうち健康に死んでいくだろう。

少し前に、母校はほかの定時制と合併されてしまった。
あの日々の、夜の職員室の温かさ。
食堂で出される少しの給食。
暗いグラウンドの体育祭。
先生に打ち明けた苦悩。
私は思う。
私はそれらを忘れないし、それらはこれから未来にかけて、もっと役割を果たされるべきだと。