あの運命の夜を、未だに覚えている。
――と言っても別段、劇的な何かが起こったわけではない。少し前に買ってもらった本を一人、エレクトーンの椅子に座って読み終えた。それだけの話である。
「作家になろう」
そう決めた夜だった。

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その小説の何がそこまで響いたのか、本を読むばかりで書きたいだなんて思ったことも無かった少女が、何故腑に落ちるようにそう思ったのか。
そこに納得出来る理由を付けるのは難しい。その小説は以後何度も読み返すことになるけれど、一番最初に読み終えた当初は“特別に”好きという訳ではなかった。
面白いけれども、よく分からない部分も多いし、グロテスクだし、絵もなんだか古臭いし……そもそも小学生向きの本じゃないのでは?と気付いたのも高校生になってからだ。何度目かの通し読みを終えて、昔には分からなかったことがどんどん分かるようになっていたから、余計にそう思ったのかもしれない。
とはいえ、分からない部分が多かったとしても、その本を読んで作家になりたいと思ったことに変わりはない。人生には大なり小なり転機となる出来事が存在するが、私にとってあの夜がそうなのだ。
あれだけは忘れられないし、忘れたくない。

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もしも私が強かに頭をぶつけて当時の記憶が飛んだら、もしもこの「作家になりたい」という夢が失われたら、一体これからの人生はどうなってしまうのだろう。
少なくとも、今程様々なことに挑戦しようとはしなくなるだろう。だってその経験を作中に生かしたり、ネタ探しをする必要が無い。
今よりも本を読む機会は増えるかもしれない。書く時間がまるっと消えるのだからありえる話だが、その場合、読書で得たエネルギーを持て余しそうな気もする。
嫌なことも、辛いことも、何もかも『物語に生かせるかもしれない』という思いがあればこそ耐えられた。それが無くなってしまった時、私は果たして今のように呑気なまま生きていけるのだろうか。そもそもそれは、本当に今の私と同じだと言えるのか?

ねぇお母さん。あなたがこの本どう?と聞いた時、私は別の本に夢中で生返事でしたね。それなのに、あの本を買ってくれてありがとう。あなたがあの本を選んでくれなかったら、あの本と出会ってなければ、私の人生は今とは大きく違っていたでしょう。
この夢があったからこそ、友達になれた人もいる。泣いてつまずきながらも、ちゃんと生きてこれた。
あなたを含めて誰も応援してくれなかったけれど、この夢は私の命綱で、ただ一つ絶対に譲りたくないもので、道標の無い土地を歩む旅人にとっての北極星だった。

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今日、今この時まで、私はあの本が好きなまま、あの頃の夢を忘れないまま生きている。どうか明日もそうであってほしい。
人は突然死ぬし、ブームは簡単に去るし、好きという感情がいつまで保たれるかなんて誰一人保証出来ない。私が永遠に夢を見続けられる保証など無い。
けれど忘れたくない。あの夜のことを、生まれ直したようなあの日のことを。夢は叶えられていないけれど、十歳の少女が抱いた決意は、今はまだこの胸の内にあるのだから。