著者の母国語で読みたいから、読むのは日本語作家だけと決めていた
小説を読むのが好きだった。そうは言いつつも、読むのは日本語作家だけと決めていた。
決して、外国人作家の本が嫌いだったわけではない。著者の母国語で読まなければ、著者が本当に伝えようとしたことが伝わらないと信じていた。外国語を日本語に翻訳した小説は、その物語が本来持っている魅力を伝えきれないと思っていたのだ。
私は読書好きが高じて、自分でも小説を書くようになった。自分の好きな物語を一から作り出すのは楽しかった。小学生の頃、自分は将来文章で食っていくんだと思い込んでしまった。
そのまま数年が過ぎ、私は高校生になった。筆が進まなくなり、どこを目指していけばいいのか分からなくなった。私が書く小説はどれも似たり寄ったりで、書いていても楽しさよりそこばかりに目が行くようになってしまった。
何か新しいことに挑戦したい。何か新しい刺激が欲しい。今の自分にはない、何かが欲しい。
食べず嫌いの翻訳小説が視野を広げ、未知の面白い存在を感じさせる
そんな私の苦悩を知らないはずの図書館司書さんに勧められたのが、シェイクスピアの『リチャード三世』だった。翻訳小説か……と思いつつ、その頃私の好きなアイドルがシェイクスピアの舞台をやっていたこともあり、読んでみることにした。
あらすじはこうだ。醜い男リチャードは、自分が王になるために邪魔者を次々殺していく。殺された人たちの妻は、言葉巧みに誘惑して自分のものにする。そうして思惑通り王座に上り詰めた後、徐々に自分の蒔いた種を刈り取ることになる。
私は夢中になって読んだ。面白かった。ただ、面白かった。世界史の成績が死ぬほど悪かった私でも、面白いと感じながら読めた。
視野が急激に広がった。この世界には、私の知らない「面白い」がまだまだ存在している。そして、それは自分が食べず嫌いをしているものの中にも存在している。
外国人作家の小説は理解できないだろうと思い込んでいたのも間違いだった。まず、小説の全てを「理解しよう」ということ自体が間違っていたのだ。
小説の読み方に決まりはない。背景や歴史を全部知っていればそれはそれで面白さは増すだろうが、小説は物語であって歴史書ではない。その物語そのものを純粋に「面白い」と思えたら、それだけでいい。おそらく筆者もそう思っているはずだ。何も難しいことではなかったのだ。
『リチャード三世』を読み終えて、ふと考えた。
そうだ、この物語をオマージュして、現代風にアレンジしたら面白いんじゃないだろうか?
あの日、固定概念が破壊されなければ、文章を書くことをやめていた
その日から、私は新しい小説を書き始めた。これまでやったことのなかった、「脚本と、それを演じる役者たちの物語をリンクさせる」という書き方も試した。
その小説が何かの賞に引っかかったとか、そういう素晴らしいオチはない。それでも、その小説を書いているとき、私は久しぶりに「楽しい」と思えたのだ。
そして、私は22歳になった。私はまだ、何者にもなれずにくすぶっている。それでも、まだ文章を書くことは楽しいと思えている。あの日、『リチャード三世』が自分の固定観念を破壊してくれなければ、きっともうとっくの昔に文章を書くことなんてやめてしまっていただろう。
まだこの世界には、数え切れないほどの面白いものがある。私が出会えていないものもたくさんある。そして、私が面白い物を生み出す可能性も、まだ数パーセント残されている。
高校生でシェイクスピアに出会ってから数年。部屋の本棚には、あの頃の自分であれば絶対に買わなかったであろう本がたくさん並んでいる。