忘れたくないこと、忘れられないこと。それは、世界で最も愛する猫の、お腹の毛の柔らかさ。

「あぁ、猫に触りたい」
精神的に疲れてくると、ぽつりとこぼす言葉がある。実を言えば、心からそう言っていることもあれば、そうではないこともある。本当に触りたいかと聞かれれば、微妙なところもあったりする。
本当はただ猫を求めているよりかは、心の癒しを欲しているのだろう。気がつけば、我が家から人間以外の生き物がいなくなって、もう5年が過ぎた。

「猫に触りたい」
そう呟くとき、決まって心に浮かぶのは、世界で最もかわいい愛猫だ。高貴な顔に似合った王様のような性格で、いつも自分が一番だ!と顔に書いてあるような、偉そうな表情をしていた。

触られるのはそれほど嫌いじゃないけれど、気に食わないとすぐに噛むし、抱っこもイヤがった。頑張ってつかまえても、長い長い後ろ足で人間を蹴飛ばして、すぐに逃げていく。そのくせマグロの缶詰には弱くて、クローゼットの中に入ってしまった時などは、缶詰をちらつかせれば勢いよく走ってきた。

みんなには王様とかトラとか呼ばれていたけれど、孤独だった小学生の私にとっては兄弟ができたようで、猫と暮らせることが、ただただ純粋に嬉しかった。

◎          ◎

私が大学に入ってしばらく経った頃、最愛の猫が不治の病を発症したことが分かった。
私はこの子に、どれくらいのことをしてあげられただろうか。病気を宣告されて、頭に浮かぶのは後悔ばかり。受験でろくに遊んでやれず、世話も家族に任せきりだった。にゃあとたまに甘えてきても、心の余裕が皆無で、遊んでやれないこともたくさんあった。

急に手の中の温もりがなくなる寂しさが押し寄せてきて、酷く辛くなった。病気を宣告されてから、できるだけのことをして、何とかまた元気になってほしいと願った。
額から汗が垂れるような暑さが続く中で、働きが悪くなったお腹を一生懸命マッサージしたのが、まるで昨日のことのように思い出される。
お腹は触るとすぐに噛み付いて、元気な頃はほとんど触らせてくれなかったのに。
マッサージをしている間、まるで「任せたぞ」とでも言っているように、金色の目でじっと私を見つめながら身を委ねていた。

◎          ◎

暑い夏が近づくと、いなくなってしまったあの子のことを思い出さずにはいられない。
手の中に残るふわふわの長い毛。ちょっとカールした、クリーム色の毛が指に絡みつく感覚。脱水を防止するための輸液のせいで、ぽちゃっとしたお腹。

「あぁ、猫に触りたい」
私は今日も、ぽつりと呟く。猫に触りたいとこぼす本心はきっと、あの子のお腹の毛に触れた感覚を、毛の色を、指に残るふわふわさを、いつまでも忘れたくないと感じる心なのだと思う。

忘れたくない、忘れられない、あの子との思い出。
夏が近づく日に茶色い小さな家族のことを考えていると、ヤバネススキのようなふさふさのしっぽが、急に足元をすっと横切った気がした。