先日、仕事の関係で郊外へ赴いた。
車からみえる景色は青々としていて、もう夏が来ることを感じさせる。
ふと、田んぼの横の農業用水が目に入った。キラキラと太陽の光を反射させながら流れているのを見て、心が安らぐ。そろそろ田植えの時期か。
忘れていたはずの記憶が、脳裏に映し出された。

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ゴールデンウィークは田植えの季節。
母の実家が農家だったから、ゴールデンウィークは親戚みんなで田植えをした。
男の人達は、大きな重機を動かし、苗を植えていく。
女の人達は、苗を育てていた空箱を田んぼの横の農業用水で洗う。
まだ小さかった私は「お手伝いする!」なんて言いながら、透き通るその農業用水に足を入れジャバジャバと遊んでいた。

日光が照りつけ、日陰のない田んぼ。
じりじり日に照らされ暑いのに、用水はキンキンに冷たくて綺麗で不思議だった。
小さかった私は、みんなが田植えを頑張っているのを横目に祖母と早めに家に帰り、夜の宴会の準備をした。
祖父母が田植えの手伝いにと用意したご馳走は、いつも豪華で心踊った。
祖母は楽しそうに、結ちゃんはマグロが好きだから多めに入れておこうねえなんて笑った。

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沢山の車のエンジン音が、みんなが帰ってきた合図。
あー腹減ったー!と大人達がドロドロな姿になりながら笑い合う姿は新鮮だった。
順番にお風呂で泥と汗を流し、家が石鹸の香りに包まれると、沢山のご馳走をみんなで囲む。
一緒に何かをやりきると仲間意識が出来るのか、いつもよりみんな楽しそうだった。

その後、女性達は台所で宴会の後片付けをしながら旦那の愚痴を言い合い大笑い。
男性達は応接間で政治や次植える作物の話で白熱して、子供たちはその辺を走り回る。
みんな笑っていて、安心出来る時間。

あの頃は、それが当たり前だと思っていた。

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あれから10年が経ち、祖父が亡くなった。
毎年恒例だった田植えもなくなり、親戚で集まることもなくなった。
今世の中では、そういう親戚付き合いを敬遠するところもあり、それでよかったのだという声もあった。
確かに私自身、1人でいることが好きで、お正月やお盆の集まりがわずらわしく思うこともある。
男だから重機を使わないきゃいけないとか、女だから宴会の後片付けしなきゃいけないとか、そういうのはなくなったほうがいいのかもしれない。
だけど、田植えの時のあの人の温かさや、安心感、そういう経験は人間にとって必要だと思う。

今思えば、あの時感じていた安心感は帰属意識だったのかもしれない。
今の時代、どこかに帰属するより、なんでも自由に個々でやることが好ましいとされている気がする。だけど、それも自分がどこにも帰属意識をもてなければ、ただただ地に足がつかず不安感に苛まれる要因になる気がする。

最近は滅多に思い出すことはなくなってしまったが、あのとき私は確かにあの温かな場所にいて、居場所があったということを忘れたくないと思う。