背中を押す言葉。小説家になるという、途方もなく馬鹿げた夢を追う私の背中を、そっと押してくれる言葉だった。
私は小さな時から小説が好きだった。絵本に始まり、年少向けのディズニーの本に飽き足らず、小学2年生の頃には活字が多く並んだ小説を読んでいた。
空想が得意だったから、小説を読んでいると目の前にその世界が広がっているようだった。主人公の胸の高鳴りを共有することだってできたし、しゃらりと鳴るかんざしの音も聞くことができた。ふんわりとやわらかなドレスの生地を触る事だってできたし、呪文をうまく唱えられるために練習だってした。
そんな子供だったから、オリジナルの世界を空想することだってあった。
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小学6年生のときには、クラスで各々が好きな係をしていいことになった。私の係の名前はなんだったかな……とにかく“小説を書く係”を創った。なんと私以外にも、その係になってくれたクラスメイトがいて、そのことに感動もした。世界を作るのは、私一人だけじゃない!
でも、この時の私には、まだ空想を小説にすることは難しかった。頭の中に壮大なスケールで展開しているものを、どうやって目の前のパソコンに打ち込めばいいのか分からなかった。でも、一緒に係になった彼女は、コンスタントに更新をして、さらにそれを読むファン(クラスメイト)まで獲得していた。
自分の世界を描き出し、ファンを獲得すること。そのうらやましさと、得た時の嬉しさは、今の私の活動の根源にある。
中学生になり、高校生になり、ようやくなんとか、小説らしい形にはなってきた。私の中で読みたいと思う小説と書きたい小説がイコールではないことに気づいたから、書くのがもっと楽になった。
大学生になると、もっとすごい小説を書く人達に囲まれて、私はもっと小説を書きたいと思った。彼らや彼女たちに負けていられない。「小木さんの書く小説は面白いね」って言わせたい。
切磋琢磨しながら、私はいくつもの小説を書いて部誌に出したり、同人誌を発行したりした。
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苦しかったのはその後だ。大学を卒業して、一人になった瞬間、小説を書くという道がとても細くなった気がした。道はぎりぎり一人分しかなく、薄暗く、先は見えない。周りの仕事という道は大きく幅広で平坦で、そちらの方を歩く方がよっぽど楽だっただろう。
でも、書くことを止められなかった。そして大学時代の同期がまだ小説を書いていることを知って、「あのコンテストに応募したら?」とけしかけると、なんと彼女は大賞をとってプロデビューしてしまった。
受賞を知らされた時、かろうじて第一声は「おめでとう」と言ったけれども、もう次の言葉は「悔しい。本当に悔しい」というしかなかった。
細く、薄暗く、不安定な道を、彼女はあっという間に駆け抜けて、明るいところに出てしまったのだ。
彼女のようになれるだろうか。
プロの作家になるなんて、荒唐無稽な夢を追っていても……。
悩んでいる私に、母は言った。「好きに生きなさい」と。
私が小さな賞を取って本を出したときには、誰よりも喜んでくれた母親。
積極的に応援してくれているわけじゃない。ともすれば、放任でもあるかのような冷たい言葉。でもそこに込められているのは、私を認めているという愛。
根本的に「小説を書きたい」という衝動に駆られて筆を執る私を、「やりたいならやればいい」と認めてくれている。
それがどんなに心地よかったことか!息が楽になったことか!
母が背中をそっと押してくれたから、私は細く、薄暗く、不安定で、いつ明けるとも知れぬ道を歩む決意ができたのだった。