同棲を解消し、埼玉県にある実家に帰ってきたのがちょうど去年の夏のこと。
私が23歳のときである。
精神的に不安定になってしまった私は、同時に勤めていた会社も辞めてしまい、これからどうなるんだろうという不安と情けなさで押しつぶされそうだった。

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私の実家には独り身の母と茶色い毛並みの中型犬がいる。
久しぶりに会った母は少し痩せていて、犬のドッグフードはシニア用になっていた。
変わっていたのはそれだけ。
それ以外は何も変わらず、私が出ていった当時のままだった。

幼い頃から母との確執で苦しんでいた私は、18才で家を出た。
あの時以来、再び実家の玄関をくぐった時。当時私はもう二度とここには帰らないなどと誓いを立てて出た事を思い出していた。

突然帰ってきた私に対して、母はなにも聞いてこなかった。
思えば、子どもの頃からそうだった。描いた絵で賞をとったときも、友達とケンカしたときも、バレンタインにチョコを手作りしたいと言ったときも、母は一貫して放任主義だった。
母のそんなところが好きで、同時に寂しくも思っていたことを思い出した。

母はきっと、何も変わっていないのだ。
そして今の私には、その素っ気なさがとても優しく沁みた。

そんな放任主義の母の下で育った私は子どもの頃から自立心が強く、早いうちからひとりで生活していた。そうして社会の荒波に揉まれ、いつの間にか自分を見失っていった。
なぜその職場を選んだのか、その相手を選んだのか、なぜそこで暮らそうと思ったのか。
今この瞬間の自分に至るまでの過程を、私はすっかり見失っていたのだ。

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私はなにかを思い出せるきっかけになればと、思いきって昔のアルバムを見てみることにした。
私は写真よりもまず、その中に書き込まれた母の文字を見て驚いてしまった。
母の文字が今の私の文字にそっくりで、そんなところで親子であることを実感してしまったのだ。

ページをめくっていくと、そこには両親から溺愛されているかわいい女の子の姿があった。大人しいけどよく笑っている子だった。
抱っこされている写真は一枚もなく、まだ幼い私の前をスタスタと歩いてばかりいる母の写真をみて、その変わらなさになんだか笑いさえこみ上げてきた。

何枚も写真を見ているうちに、私はだんだん思い出してきた。
子どもの頃、今私がいる和室には仏壇があって、ひとりで立ち入るのが怖かったこと。友達と遊ぶことよりも、ひとりでいる方が好きだったこと。子どもの頃から寝つきが悪くて、家族の寝息を聞きながらいろんな物語を想像していたこと。それが楽しくて、将来は漫画家になりたかったこと。
スタスタと私の前を歩く母のことが大好きで、その背中がずっと憧れだったこと。
大きくなったらお母さんみたいになりたかったこと。
母は母なりに、私を愛してくれていたこと。

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ゆっくり、でも鮮明に当時の記憶が蘇っていき、小学生の私がそのまま現代にタイムスリップしたような、そんな不思議な気分に襲われた。頭の中はとても静かだった。
何も変わらない実家、何も変わらない母、それから私。

忘れてはいけないこと。
それは、母の愛と子ども心だった。
23歳のわたしは、自分の夢どころか自分自身のことも見失っていたのだった。
子ども心を忘れるということは自分を忘れるということ。
そしてもう一つ。
母の素っ気なさは私への信頼でもあるのだと気がついた。
母もきっと私に似て、言葉で伝えることがとても苦手な人なのだ。

そんな事を考えながら、ふと気がつくと日が暮れ始めていた。
もうすぐ母は犬の散歩から帰ってくる。

スタスタと前を歩く母の背中。
今度は隣を歩きたいから、もう少しゆっくり歩いて。
明日は一緒に、犬の散歩に行きたい。