私が忘れたくないのは、3年前の私の決心。毎日珈琲を飲んでいたマグカップに誓った、変わりたいという思い。

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3年前の秋、パリへ旅行した。
オランジュリー美術館前の土産店に置いてあった、画家・ルノワールのマグカップ。私はそのマグカップを購入するという行為に、「卑屈をやめる」という意味を持たせることにして、キャッシャーに向かった。

卑屈……「必要以上に自分をいやしめて人にへつらうこと。いじけて人にへりくだること。」(広辞苑)

興味を持ったことに対して、やらないための言い訳を並べて、ほとんど実行していなかった。詳しくは、こちらのエッセイ(「やらないための言い訳選手権をやめて、勢いに乗った私って最高じゃん」)をご覧ください。
そのときの言い訳が、「自分にはできないだろう」「私なんかに資格はない」といったラインナップ。まさに卑屈パレードだったわけだ。

それ以前の私だったら、いくらでも下位互換のあるマグカップという商品に、4000円も支払わなかった。「もったいない」という、よく知った声が頭の中で発せられる。飲料を飲むという目的を達成できる器であれば、100円ショップのものでも、使用価値は同じ。
でも、その価値は、計測できる価値。私がルノワールのマグカップに見出したのは、そう簡単には測れない価値。

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オランジュリー美術館で沢山の絵を見て、ルノワールの描いた女の子に一目惚れして、大好きになって、お土産屋さんでそれと目が合った。引力が凄くて、逸らせなかった。これはもう、一緒に帰らなければいけないのだと悟った。
でも、日用品にこだわりを持ってこなかった私にとっては、価格もその美しさも、ハードルが高い。私にはふさわしくない。そう、また、「買わない言い訳選手権」が脳内で開催され始めた。

でも、そこはパリ。これを逃したら、気軽に来られるような場所ではない。しかも、そのとき一緒に旅行した友達が、とても心に正直で、感性と直感で選択をするシーンが多い開放的な人だったことも、私の心を高揚させた。
このマグカップを買うことは、自分を卑下することで行動を抑圧する連鎖を断ち切ること。そういう意味があると感じた。無事、美しい箱と、蚤の市で買ったミンクのコートに包まれて、一緒に帰国してくれた。

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帰国後しばらくは、使えなかった。だって、割るのが怖いじゃない。美しいし、同じものを買おうと思ったらパリに行かなくちゃいけない。
いいえ、同じものなんてない。私の決意が載ったものは、あの日あの場所にしか無い。

暫くして、うきうきした心持ちのときに、思い切って珈琲を注いでみた。緊張したけれど、一口飲むたび、苦味と共に流れ込んでくる気品と自信が、私の身体を心地よく重くした。その日から、珈琲専用マグカップになってくれた。

さて、私が過去形を使っていたことに、お気づきだろうか。そう、ルノワールのマグカップは先月、姿を変えた。それはもう、絶望に近かった。悲しいことすら実感できなかった。真正面から悲しんでしまうと、私まで壊れそうだったので、自己防衛が働いたのかもしれない。

でも、今は前向きだ。新しい関係を構築しているから。

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たしかに、「珈琲を飲む」という用途は無くなった。道具と使用者という関係性は二度と回復しない。だから、次にゆくのだ。これは、新たな関係性を築くことができるという、可能性だ。私とルノワールのマグカップは、これから、新しい関係を築いていく。
どのような関係性かはまだわからないけれど、買った時に入っていた美しい箱の中で、ゆっくり休んでいるのだと思うと、なんだか安らぐ。道具と使用者という、どうしても上下が発生する関係を脱却して、対等なところに立っている、いや、座っている気分。

使えないからこそ、時間も空間も関係なく、思い出せばいつでも励ましてくれる。そんな存在になるのかもしれない。

壊れたからといって、3年前の決意まで壊さなくていい。土産店で交わした約束を忘れなければ、私はこれからも、自分をいやしめず、気品と自信を保つことができるだろう。