摂食障害12年目。
毎日のように自分の体調に頭を悩ませ、それにまつわる体の不調に伴い、日々病院で治療を受ける日々。
悩んだことは多々あったなんてレベルでは無いほどに悩んだし、普通に生きていればぶつからないであろう壁にもたくさんぶつかった。
残念ながら今のところいっさい落ち着く気配はないけれど、10年以上経ってようやく諦めるべきだと学んだことが2つある。

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まずひとつ目は理解して貰うこと。
私の不調としては、みんなのようにご飯が食べられない。
例えばチョコレートを一粒食べると、それが起爆剤になって、お腹が膨れ上がるまで無心で食べ続けてしまう。
いわゆるアル中の食べ物バージョンのような感じ。
仮にお腹が空いてなかったとしても、お腹がいっぱいになったとしても、どうしてかひたすらに食べ物を摂取して、苦しくなった頃に全て吐き出してしまう。
そして空っぽになった胃を満たすべく、また山ほど食べては吐くというのを、力尽きるまで繰り返してしまう。
いわば二重人格のようで、食べ出した私は自分自身のコントロール外の場所にいて、自分自身で阻止することが出来ない。
1日2万ほどかかる食費の日々の積み重ねで出来た借金で相談所に行って、
「こういう症状の結果お金を使ってしまって」
なんて言っても、
「それは自分の甘えだよね」
と、一蹴される。
付き合いの長い友達と会話の中で最近体調が、なんて言っても、
「でもそんなに痩せてないから安心した」
なんて言われたりする。
きっとこの友達は私が一口も口に出来ないのだと思っているのだろう。
おまけに家族は、
「実家に帰って来たときぐらいたくさん食べさせないと」
と、テーブルいっぱいの食事を用意してくれたりする。
極め付けはお医者さんだ。
すがる思いでお医者さんに相談しても、
「じゃあひと口も食べなきゃいいじゃん」
だとか、
「人間なんだから食べないと生きていけるわけないでしょ」
なんて心無いことを言われたりする。

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そんな皆の何気ない言動に傷ついた時期もあったけれど、最近は理解して貰うことを諦めるべきだと気づいた。
だってそもそも他人の体なんて理解できる訳ない。
高校生の頃、生理痛で学校を休んだ友達を見て、なんて弱っちい奴なんだと思った。
大人になって、風邪で仕事を休む上司を無責任だと言った。
けれど、彼女たちの苦しみを私は全く理解出来ない。
もしかしたら立つこともできないほどの生理痛だったかもしれないし、病院に運ばれるほどの熱だったかもしれない。
「殴られるような痛みで」
「40度を超える熱で」
そう言われたって、痛みに対する耐性も人それぞれだから、辛いことは理解できるけれど、それがどの程度なのか私には理解出来ない。
だって私の体じゃないから。
体感したものじゃないから。
だから私は人に理解して貰うことを諦めた。
マイナスな言葉に聞こえるかもしれないけれど、
事実として、他人同士ではお互いの痛みを想像することは出来ても、理解することは出来ない。

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もう一つ、自分自身を理解することを諦めた。
どうして私の体は言うことを聞かないのか。
どういった時に私の体は暴走して、どういった時に私の体は落ち着くのか、悩んで悩んで悩んだけれど、結局考えたところで暴走する時は暴走する。
ならばもういっそ諦めて、
「あ〜今日はご機嫌がいいのね!最高!」
「今日の私は不調の日だから諦めよう」
と、気楽に考えたほうがよっぽど楽だ。
いい時もあれば悪い時もあるよ、人間だから。
どのみち言うことを聞かないのであれば、そんな感じで気楽に付き合って、いつか時が来るのを待てばいいのではないのかな。
そう思うようになった。

こんな文章を淡々と書くと、さぞかし冷たい人間に思われるかもしれないけれど、決してそうではない。
弱い自分を守る為の技もしくは、自分のコンプレックスと付き合う為の手段なのだ。
生きていれば自分の体で悩むことはたくさんある。
足が太いなんて可愛い悩みから、不治の病にかかってしまったなんてヘビーなものまで。
でも、それらも全部向き合ったり悩んだりしたところでどうにもならないのなら、諦めて仕舞えばいいと思う。
そうすれば、自分の心がグッと軽くなるから。