もっと頑張れもっと頑張れ、あれもお願い、これもお願い、若いうちにたくさん苦労しろ、若さで乗り切れ、努力が足りない、もっと上を目指すなら俺を信じてついて来い、ガッツが大切、あの頃は……、俺は若い頃がむしゃらに働いたから今があるんだ……。

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バブルの時代の何をやってもうまくいった時代に働き盛りだった頃のありがたいありがたい話をしてくる中高年の人たちに、うんざりします。
世の中には理不尽なことが必ずあるのだと、その機会を無意識に創り出すあの方々。彼らのおかげで、今の社会があることを尊重した上で、言わせてもらうと、今はあの頃とは違うのです。
バブルはとうに消えました。がむしゃらに努力をしていても、やり方を間違えると決して身を結びません、身を滅ぼすだけです。
その期待に応えようとどこまでも自分自身に鞭を打っても、後に残るのは安定剤というお薬を飲む私だけでした。そして、何よりもそうなった責任は自分にあり、そこまでしか頑張れない私は逃げているのだと彼らに言われました。俺が若い頃にはもっと頑張っていたとか云々話が始まりました。

安定剤を手放せない頃の私が得意なことは、自分を責め尽くすことでした、なんで私はこんなに弱いんだと、情けないと。
けれども、今ならわかります。私は決して弱くはないのです。私は頑張る方法を間違えてしまったのです。
自分のことを一番に考えて行動する必要がありました。誰かに認めてもらえるように頑張っても報われることはあまりない、ということを知るべきでした。私が私自身を認めてあげれば良かったのです。
けれども、若く何も持たず、働くということがなんなのかよくわかっていなかった私は、自分に対して自信がなかったのです。だから、誰かに認めてもらいたかった、それが私の自信になると信じてしまいました。
なぜなら、がむしゃらに頑張れと、周りの上の世代の人たちは言ったからです。

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いつの時代も「今の若者は何某だ」という話をするそうです。そして、自分の若い頃と比べて、やれダメだと言うそうです。
けれども、本当にそうなのでしょうか?私は思うのです。
私にがむしゃらに頑張れと、そう諭した大人たちが若い頃、彼らの周りにいた人たちはみんながむしゃらに働いてみんな偉くなったのでしょうか?
私のように働けなくなった人はいないのでしょうか?
別な生き方を選んだ人はいなかったのでしょうか?
本当に努力し続けることが大切なのでしょうか?
何もかもを犠牲にして働くことは正義だったのでしょうか?
家庭を見捨てて仕事に生きた彼らは、その後どうなったのでしょうか?
決して違うはずです。私たちは納税の義務はあれど、幸福追求はしてもいいのですから。
少なくとも、今の私はそう考えています。

努力をするのは悪くないと思います。ただし、自分のために自分がしたい努力をすることをおすすめします。そして、努力をしている自分を完璧を目指して、責めるのではなく、認めてほしいと思います。叱られても、嫌なことがあってもこんなに頑張っている自分がすごいのだと、取り組んでいる自分は決して弱くはないのだと。
人生の先輩方には、もっと頑張れというならば、その人ができる限り頑張っているかを判断して指示をしてほしいと思います。
そうでないのなら、決して無責任なことは言わないでほしいです。私のような人間をもうこれ以上増やさないように。