いわゆる「大人」が「若手」にとって煙たい理由の多くは、大人側の人間が若手側に「自分を認めてほしい」「尊敬してほしい」といった欲望を押し付けているからだ。
有史以来の枕詞、「最近の若者は」に始まり、自分たちの若かりし頃を懐かしんでは、「大変だったんですね!」「すごいですね!」とほめて欲しがる大人たち。
大人は、ありがたい話をしてやろうとか、自分の生きざまが若者のためになればとか思っているのかもしれない。でも、残念ながら若者は、早く終われと念じながら、機械的に言葉を発射させているだけだ。
現代は「亀の甲よりテクノロジー」。大人の意見の重要性は低くなった
俺の若いころはもっと大変だったんだ、そんな甘っちょろい考えでうまくいくか。
結婚して子供を持って、責任感が湧いて一人前、気楽な独身でい続けようなんて間違ってる。
チャレンジなんかしてないで、地に足つけて生活しなさい。
大人たちは、悩み多き若者を捕まえては、知恵をつけてやろうと説教をし、自分の意見を押し付ける。
亀の甲より年の功。彼らの意見はたまに、参考になる。でも間違いなく、彼らが若かったころよりも「大人の意見」の重要性は低くなっている。
百戦錬磨と自負する大人たちには申し訳ないけれど、現代は「亀の甲よりテクノロジー」。時代の流れが早すぎるし、インターネットを使えば容易に情報にアクセスできるしで、長老の知恵のありがたみが減っているのだ。
そして、時代感覚が違い過ぎる大人は、若者の芽をしばしば摘む。地味でもこつこつ真面目に働いていれば家を建てられた時代を知っている大人たちと、高学歴でも野垂れ地ぬことを心配しなければならない現代の若者の間には、深い深い溝がある。
大人は自分の感覚で若者にアドバイスするし、若者は自分の感覚で大人の話を聞くから、ずっと平行線だ。大人はきっと、物わかりの悪い若者だと思っているだろうし、若者は古い大人の言うことなんて聞いてやるかと反発する。お互いにちょっと傷ついて、でも交わるところはない。
分かり合うなんて土台無理な話、歴史の授業とでも思って聞き流そう
交わることがないのなら、若者は、歴史の授業でも聞いていると思って聞き流そう、くらいの心持ちでいればいいと思うし、私はそうすることにしている。
ジェネレーションギャップは、民族や人種、文化などの差と同じかそれ以上に大きいものらしいから、歩み寄って完全に分かり合おうとするなんて土台無理な話だ。
あんたぐらいの年齢の時には子供がいたという祖母には、そんな時代だったんだねえ、としか言わないし、お堅い会社に就職すれば一生安泰だと信じて疑わない母には、まあ頑張るわ、としか返さない。若いころからの努力をとうとうと語り、努力することが当たり前と信じて疑わない父の自慢話も一時間までなら真剣に聞く。
でも、女性の二十代は子育てに費やさなくてもいいし、子供と真剣に向き合ってもいい。会社なんていくら大きくてもつぶれるときはつぶれるし、努力できる度合いは人によって違うから自分の当たり前を押し付けるのは違うはずだ。
心の健康を守って自分の人生の舵を取るために、心の中で反抗的になる
心の中でこんなことを念仏のように唱えて、心の距離を取って自分を守る。祖父母世代、親世代と同じように生きるなんて無理だし、祖父母や親も自分の祖父母や親と同じ生き方はしていないはずだ。
大人にとっても酷な話だとは思う。だって、「真面目に生きていれば尊敬される長老になれるから頑張ろう」と思って生きて来たのに、いきなりインターネットが登場して、「長老よりも若手カリスマ経営者」なんて風潮になってしまったのだから。
可哀そうだな、と同情はする。自分も年を取ったらありがたがられなくなるんだろうな、と思うとちょっと怖くなる。
でも、今、この瞬間に自分の心の健康を守って自分の人生の舵を取るためには、心の中で反抗的になってもよいはずだ。