小学6年生の体育の時間。半袖短パンの体操着に身を包み、グラウンドに整列した。
小学生は騒がしい。開始のチャイムが鳴るまでのわずかな時間でも、友達とのおしゃべりに使われる。
「あの子、脇毛生えてる。半袖で見えちゃうのに剃ってないなんて、逆セクハラだよね」
隣に立っていた子が、私にこそっと囁いた。反射的に「あの子」へ目をやると、確かに袖口から黒がうかがえる。同時にぶわっと冷や汗が出た。
毛って剃るものなの?私、何もしてない。
頭の中で逆セクハラという言葉がぐるぐる回る。不愉快な毛を見せつけるなんて、変態ってこと?
もう、腕を伸ばせなかった。体育の準備運動はこそこそと縮こまる。最後の深呼吸なんて無理。上に腕を伸ばすなんて自殺行為だ。幸運にも先生に気づかれずに済み、安堵した。

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その日、帰宅し真っ先に脇毛を剃りたいと親に申し出た。
あっさりと電動シェーバーを買ってもらえた。心の底から救われた気持ちで、私は脇毛を剃った。ついでに腕や足の毛も。これで人を不愉快にさせる毛がなくなった。私は変態じゃない!

そしたら、母の怒りに触れた。脇は剃ってもいいけど、腕や足は駄目。剃ったら毛深くなるでしょ、と。
毛が生えている状態が駄目なことなのに、毛深くなるからって理由はおかしくないか。こちとら、つるつるの為に毎日でも剃るつもりだ。
しかし、小学生は親に勝てない。散々怒られ泣かされ、結局剃っていいのは脇毛のみ。
それから高校生になり親に反抗するまで、手足の毛をむしり続けた。剃ってない、抜いてるから母の言葉を破ってないと言い訳して。

あの体育の授業で、私にとって毛は変態の証となってしまった。それが自分にも生えているなんて、ぞっとする。いつ逆セクハラのレッテルを貼られるのか、分かったもんじゃない。

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それが今ではかなり自然のまま、伸び放題である。言い訳をするならば、小さな子どもと一緒のお風呂で、悠長に毛を剃る暇などないのだ。
タンクトップを着るときは、さすがに剃るが。年に何回もない。普段はできる限り、肌の隠れる服を着るようにしている。日焼け対策や防寒の意図が強いが、毛が生えてても気にしなくていいという気持ちがあるのも無視できない。

でも、他人の毛に対して逆セクハラと感じたことがない。そもそも、この人生えてる、とさえ思わない。腕に毛が生えているかどうかなんて、日常生活で注視することがない。仮に生えているのに気づいても、驚くほど何も思わない。
ならば私の毛も、そうそう誰かを不快にしていることはないのでは、とも考えるのだが。他ならぬ私が不快なので難しい。他人の身体より距離が近いから、毛穴までよく見えるのだ。

ありのままの自分を受け入れるのは難しい。でも、毛を処理することで少し自分のことが好きになれるなら、それは十分な理由になる。
毛を剃るのは髪をトリートメントしたり、スキンケアしたりするのと同じ。大層に考えず、なりたい姿形になればいい。私と私の身体は、そう結論付けている。