私は毎年神社で願うことがある。
「健康」だ。
私にとって健康な身体は一生手に入らないもの。子どもの頃から身体が弱く、不調は絶えなかった。
それでも、高校生の頃は無遅刻無欠席。仕事だって休んでも年に1、2回。だから周りからは健康だと思われている。でも、実際は違う。アレルギー性皮膚炎、食物アレルギー、粉瘤に椎間板症。その他もろもろ身体にガタがきている。
心身ともに、痛みや苦しみは本当にどうしようもない時以外は割と耐えることができた。だから、周りが小さな怪我や病気で大袈裟にアピールをするのをどこか羨ましく思った。私は言えないからだ。
言ってしまえば楽になれるかもしれないが、言ってしまえば、突きつけられてしまう。だから、私は言えない。
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社会人になって、被写体として仕事をさせてもらっていた時、私は顔に腫瘍ができてしまった。皮膚科で治療を受け、薬を塗ったり飲んだりと試せるものは試した。なかなか良くなることがなく、別の皮膚科にも受診した。でも結果は変わらず腫瘍が小さくなることはなかった。すると、紹介文を渡された。
「顔に傷は残ります。でも、手術するしか方法はありません」
被写体をする私にとって、顔に傷が残るというワードはとても重いものだった。診断を受けた後は冷静に返事をしていたと思う。でも自分の鼓動がやたら速く、はっきりと聞こえたことを覚えている。どうして顔にできたのか、どうして私なのか、どうして薬で治らないのかと心中穏やかではなかった。紹介文を手に外に出た時、私は1人……静かに泣いた。
私は先天性心室中隔欠損という病で手術をした経験がある。その傷跡は今でも残っている。内科検診の時に先生たちが、「綺麗に治っている」「これは一生傷が残る」「治っただけでもよかったと思うべきだね」と傷を見ながら口々に言う。気にしないでおこうと思っていても、周りが言ってくるとどうしても気になってしまう。
私が女性だからこそなのかもしれない。男性は、小さな傷でも勲章のように語る。傷をかっこいいと思っているからだと思う。でも私は違った。傷があることで被写体として不適切なのではないか。心臓の手術をしたことで、遺伝的に問題があるかもしれない。これからの生活に何らかの障害になるかもしれない。
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そして、今も身体の不調を前に悩むことがある。病院で詳しく検査をして、
「これは治りませんね。手術するしか方法はありません」
と言われるのではないかと。またこの言葉が、突きつけられるのではないかと。いや、もしかしたら「手術しても治らないかもしれませんね」かもしれない。そうしたら、私は耐えられるのだろうか。
顔の手術をした時も、再発率の話をされ、再発したらまた手術をするの?傷は残るしお金はかかる。仕事はどうなるの?好きなことは続けられるの?想像しただけで恐ろしい。きっと精神的にズタボロになる。食物アレルギーで年々食べられる果物が減っていることだって、じわじわとダメージを受けているのに、これ以上私から健康を奪わないでと願わずにはいられなかった。
でも、これが私の身体なのだ。本当はきちんと向き合って認めなければならない。
座るだけで痛い。デリケートゾーンにできた腫瘍はまた粉瘤なのだろうか。見せるのは恥ずかしいし、また手術になるのも嫌だ。これはどこから出血しているんだろうか。また変な病気になったのだろうか。自分の身体のSOSを見て見ぬふりをするのはいけないこと。わかっている。
でも、怖い。怖いんだ。周りには強がって、大丈夫なふりしてるけど、本当は大丈夫じゃない。1人で悩んで迷ってる恐怖と戦ってる。
自分の身体と向き合うって難しい。
だから、私は少しずつ向き合って、自分と同じ悩みを持つ人と共有し合いたい。
そしていつか大丈夫なふりじゃなくて、大丈夫じゃないって素直に言える人になりたい。
それから辛い現実を突きつけられても大丈夫な人になりたい。