服と身体の関係について、「服が先で身体が後」という考え方が世の中に蔓延っている。
流行りの服に似合う体型になりたい、夏は水着が入るように痩せるべし、などなど。
考えてみればおかしなことだ。
人類すべての身体に似合う万能服みたいなものはないはずなのに、なぜだか私たちの身体はだれかが定めた一定の基準に収まることが奨励されている。
私は日本で20年ほど過ごしてから数年前より西ヨーロッパに住み始めたが、こちらでは道行く人を見ていると「身体が主役のコーディネートだな」と思うことが多い。
もちろん流行というものはあって、似たようなスタイルや同じブランドの服を見かけることも多いけれど、日本のそれとは別の何かがあるとは感じていた。
体型、肌の色、年齢、性別など、「私たちには身体的な差異があるのだ」ということが、その違いを誤魔化すためでも、ことさらに強調するためでもなく、ただ大前提として行き渡っている。
「みんなちがって、みんないい」と言うのは聞こえが良いが、そもそも違うことは当たり前なんだからそれに良いも悪いもないだろう、という感覚だ。
そういったことを買う側だけでなく、作る側や売る側も意識しているというのが、最近とくに目に見えてわかるようになった。
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万人に似合うものがないということは、誰でもなんでも似合う可能性があるということでもある。
とりあえず自分の目に入ったものを着てみようという精神なのだろう、買い物をしていると、試着をして店員さんたちや周りの人と相談している人を見かけることが多い。
試着室で隣の知らない人に「これ、私に似合ってる?」といきなり訊かれたこともあった。
私も頻繁に、こちらのやり方の試着をするようになった。
私はいわゆる“日本の標準体型”からはほど遠いので、人生で試着せずに服を買ったことはほとんどない。
ただ、同じ試着でも「入らないかも」と洞窟に身体を無理矢理ねじ込んでいたような感覚とは違い、今は着てみたいものを気軽に試せるようになった。
「違うサイズを持ってきて」と頼むことを恥ずかしく思わないし、セール品で売れ残っている普段のサイズ以外のものも、気軽に身に着けてみるようになった。
あるとき「38でも入るけど、見た感じどうかな?普段は40なんだけど」と店員さんに訊いてみたら、「そんなの単なる数字じゃん。めっちゃいいと思うよ!」と返ってきたのは印象的だった。
数字に収まることを目的とするのではなくて、自分にフィットするものを選べばいい。
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自分の身体について誰かに相談したりオープンに話すことと、他人が自分の身体について何か言ってくる、というのは、同じ身体を取り巻く言葉でも全く違うのだということも学んだ。
日本では「久しぶり!」と「太った?/痩せた?」が同義語のような感覚で交わされていたのを覚えている。
「親しき仲にも礼儀あり」ということわざがある国のやり取りとは思えないが、「自分の身体は自分だけのものである」という感覚がなければ、失礼とみなされないのも当然のことなのかもしれない。
こちらではあいさつ代わりに、たとえ誉め言葉だと思っているとしても、そんなことを言ってくる人はゼロに等しい。
せいぜい、「その服、新しいやつ?似合ってるね!」とか、「今日、髪型決まってるね~」くらいだ。
冗談でも体重の増減などといった、個人的な問題に首を突っ込んでくるような人間には社会的制裁が待ち受けている。
また、「自分の身体に厳しい」人にも、ちゃんと厳しい。
ある程度親しくなると、もっと身体に関して踏み込んだ話をすることもある。
私は何度か「日本だと太ってるとかデカいってよく言われてた」ことや「痴漢被害に遭ったことを他の人に話したときに、そういう体型だから仕方ない、みたいなリアクションされた」ことをこちらの友人に話してみたことがあるが、そのとき返ってきた反応には凄まじいものがあった。
「ありえない(bullshit)」「加害側が100%悪い」といった、他の解釈の余地を許さない、強いながらも優しい言葉で私を救ってくれた。
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こういった私の経験を「西洋社会で啓蒙されたアジア人によくある話」と片づけるのは簡単だ。
私と同じような状況から来て、こちらで同じ経験をした人もたくさん知っている。
言うまでもなく女性が圧倒的に多い。
だが、身体に関する悩みというのは、どこに行っても結局、身体と一緒につきまとうものだ。
じゃあ西洋に行って考え方を変えればみんな幸せか、といった単純なものではない。
価値観が異なる場所、自分がラクになれる場所に身を置いたとしても、踏ん張っていないとあっという間に足をすくわれてしまう。
長い時間をかけて内在化した考え方からは、そう簡単に抜け出せるものではない。
“ボディポジティヴ”という言葉には、いかに私たちが自分の身体をデフォルトでネガティヴに見てしまいがちかが示されている。
そして、ポジティヴと言っても、どちらかというとマイナスすぎたものをゼロに近づけていく作業であって、プラスまで持っていける人は非常に稀であると思う。
こういった悩みは世界共通だ。
でも、付き合い方は同じである必要はない。
ゆくゆくは世界のどこにいても誰もがコンプレックスを抱いたり悩みがないことが理想だが、しばらく実現に時間がかかりそうなので、私はとりあえず自分の持ち場でやれることをやっていこうと思う。