2021年の夏。
当たり前の暮らしがなくなったことにも慣れ、疫病と共にくらすことを人々が決め始めていた夏。
25歳の夏。
私たちには何もなく、何もないからこそ自由だった。
上司と上手くいかず、彼氏にも振られ、あげく魂込めてやってきた会社の仕事でクレームを入れられ、最早何もなくなった2021年。
絶望の始まりだと思っていたところに、友人が引っ越してきた。
田舎の何もない駅に、ぽつんと1人暮らしの女が2人。
そしてその中学からの友人もまた、伝え難い思いを持っていた。
私たちには、彼氏も、守るべき家族も、見返りを与えてくれる仕事も、何もなかった。
だからこそ自由で気ままだった。
一緒にいることが増えたのは当然の流れだったと思う。
◎ ◎
「海を見に行きたい」
そう言ったその週の土日には、湘南に宿をとった。
「歌を歌いたい」
そう思った次の日には楽譜を買い、スタジオの予約をした。
「土を触りたい」
そう思った日には、ネットでろくろ回し体験を探していた。
「ハンバーグが食べたい」
その夜、その友人の家でハンバーグを作った。
「日の当たるところで本が読みたい」
言わずもがな実現させた。
何も予定がないからこそ、全て自由に決めた。
その中で日々の悩みも話し合ったし、些細な世の中に関することも語り合った。
熱いコーヒーとちょっとしたお菓子をつまんで、自分達はなにもので、自分達にあるものは何かを夜な夜な語り合った。
でもお互いが「この夏は二度とこない」と分かっていたことが、一番その夏を鮮烈にさせた。
私はその夏に「自分の感性を愛し、自分を大切に生きる術」を学んだ。
友人はわたしから「人と一緒に暮らせること」を学んだ。
自分には絶対欠けている、無理だ、と思っていたことが、そうでもなかったことを、お互いの存在から学んだ。
衝動的に遊び、自然に触れ、よく笑い、よく泣く中で、本当に大切なことを学んだ。
夏が過ぎた頃、わたしにも彼女にも守りたいものができた。
打ち込みたい仕事ができた。
◎ ◎
2022年の夏。
わたしの隣に、彼女はいない。
彼女の隣には、わたしはいない。
分かっていた通り、同じ夏は訪れていない。
ろくろを回してもいないし、湘南の海でクロワッサンも食べていない。
彼女の持っていたウクレレはクローゼットにあるし、わたしのお気に入りのワンピースは実家に置いてきた。
ただ、一緒に作ったお皿はお互いの家にあるし、一緒に見た海は彼女のiPadのホーム画面になっている。
あの時一緒に過ごした孤独な日々と、それでいて自由で眩しい日々は、何にも代え難い記憶として残っている。
夏、と聞くと、去年のあまりに苦く自由だった日々を思い出す。
そしてきっとこれからも、夏が来るたびに25歳の日々を思い出し続ける。