7月のある週末。青空が広がるなか、新宿駅西口の地下広場は、ドレス姿の美しい女性1人と、スーツ姿で決め顔をするイケメン17人の写真で、埋め尽くされていた。
バチェロレッテ・ジャパンという番組のシーズン2の配信開始に合わせて掲載された駅広告に、“「真実の愛」とは?”というキャッチコピーが。

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「真実の愛」って何だろうと思いながら、ふと、恋人とこの番組について交わした会話を思い出した。
彼とは、バチェロレッテの相手候補となる17人の男性のプロフィールを、興味本位で一緒に見ていたことがあった。

「この人絶対今まで、恋愛こじらせてそう」
「ザ、ハイスペック男性って感じの顔だよね」
「筋肉を鍛えてるこの人が一番真面目に見えてきた」
と、画面の向こう側の、会ったことも話したこともない人について、憶測だけで、たわいもない話をしながら、「この17人のなかから運命の人は見つからないんじゃないかな」と2人で予想していた。

恋人とのそんな会話を思い出しながら、先ほど見たキャッチコピーが頭に残る。
「真実の愛……ね」と思いながら、家に帰り、彼にあの番組の広告を見たと連絡する。
彼は、さらっと、
「真実の愛なんてないと思うけどね」
と言った。

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真実の愛なんて、ないのだろうか。
私が人生で初めて出席した結婚式は、19歳のときだった。
姉の結婚式だった。

ハワイの、海が見えるチャペルで、日本語を話す牧師さんが、誓いの言葉を読み上げた。
「幸せな時も、困難な時も、富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、死がふたりを分かつまで愛し、慈しみ、貞節を守ることを誓いますか」
毎日礼拝があるプロテスタント系の高校に通っていた私にとって、神様に誓うという行為に抵抗感はなかったし、牧師さんのアーメンという言葉に懐かしささえ感じた。

「死がふたりを分かつまで」という言葉が、私は、なぜかとても好きだ。
いずれ人生には終わりが来る。
終わりが来ると分かっていて、人生に永遠はないと分かっていて、私たち人間はだれかを愛そうと一生懸命になれる、儚くも素敵な生き物だから。
でも、結婚式で愛を誓えば、それは真実の愛なのだろうか。
カップルの3組に1組は離婚する今の時代に、結婚式で誓いの言葉を述べたくらいでは、真実の愛としては物足りないのかもしれない。

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もし、パートナーが病気になり、腎臓や肝臓などの臓器提供が必要となって、奇跡的に自分の臓器が提供可能となったら、パートナーに臓器を差し出せるのか。
自らの身体が負担を負うことになったとしても、一人だけ長生きするのではなく、少しでもふたりで一緒にいたいと思って、ドナーになれたら、真実の愛なのだろうか。
仕事のキャリアを犠牲にできたら、真実の愛なのだろうか。

色んな事を考えながら、「真実の愛なんてないと思うけどね」と言った彼に対して、
「愛は本物しかないよ。ただ、みんな、軽々しく“愛”だと言ってしまうから偽りの愛も存在するかのように思えるだけで」
と私は答えた。
愛は本物しかないと信じたい。正直、「真実の愛」なんてあるのかと思うけれど、あると信じたい。

恋人と付き合っている期間が長くなると、「好き」や「大好き」からそろそろ「愛してる」にレベルアップしなければと、思ってしまう。だけれど、無理やり「好き」を「愛」にレベルアップさせる必要はないのだと思う。
「愛してる」という一言はとても重い言葉なはずなのに、「おはよう」と同じ感覚で言えてしまうのは、きっと本物の愛ではない。
なぜなら、私が「これが愛だ」と思った、「愛してる」と毎日言えた過去の恋愛は、実は「真実の愛」ではなく「愛としては未完成な愛」だった。

「いつか愛になるのかもしれない」と思えるような、心許せる相手と恋愛をすることが大切だと思う。
そんな恋愛で大切なことは、相手と自分の人生のレールを無理やり1本のレールにしないこと。

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相手がやりたいことを心から応援できること。
恋と、仕事と、趣味、すべてのバランスがとれるように、「好き」の気持ちの表現方法を調整すること。

いつか相手に見返りを求めなくなったら、相手に全幅の信頼を置いたら、せっかくの旅行が土砂降りの雨でずぶ濡れになっても笑顔でいられたら、愛なのかもしれない。
血のつながった家族と一緒に生活するときのように、良い意味で気を遣うことなく、一緒にいることが当たり前になったらもう愛なのかもしれない。
あぁ、いつか愛になる恋愛の行く末が楽しみだ。