私は伴走者になった。何も本当のマラソンのことではない。この先の人生という長い道のりをマラソンに、彼氏を選手に例えた。
彼と共に前を向き、彼の夢を全力で後押しし、励まし、最低限必要なものは揃え、行くべき道が分からなくなった時には、私が指し示す。コーチであり、パートナーでもあるけれど、伴走者という表現が、一番しっくりきた。
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私が選手をやめてから、数年が経った。自分の夢は絶たれてしまった。どうやっても、文字通り体が動かず、途方に暮れた。パートナーになって欲しいと言われたのは、その時だ。
だんだん、こちらの資質もあるのではということになり、伴走者もつとめることになった。車から檄を飛ばすのではなく、沿道で声をかけるのではなく、自分も走るということだ。
彼の夢は、仕事を通して、困り果てている人を少しでも減らすことだ。それは私の夢でもあったから、出来る限りのことをした。仕事の後押しをした。
男所帯で育った彼に、働く女性の大変さも教えた。男性ばかりの中にいると、気持ちまで男性化してきてしまうこと、それでも馴染みきれず、疎外感を覚えることがあること、男性とは違う悩みを抱えるため、理解してもらえないこと、他の職種の女性との違いに悩むことなどだ。生理痛が意外とつらいこと、女性の人間関係の複雑さなどは、私を見て学んだだろう。
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伴走者だって楽ではない。一時的であれ、選手と同じ速度で走れないといけないから、自分も練習をしなければならないし、成長し続ける選手に追いつけるよう、自己鍛錬も欠かせない。怪我の際は、応急処置と自宅での療養を支えられるよう、ある程度の知識も必要だ。医者から教えてもらえるのならいいが、そういう時ばかりではない。いい時も悪い時も支えるものだ。
私はコーチでもあるから、彼が実力を発揮できるかどうかは、私にかかっていると言っても過言ではない。社会における、彼の命綱を握っている。
伴侶を、クライミングのパートナーに例える人もいた。社会で戦うことは、命がけなんだろう。私も彼と、同じ綱で繋がれている。私が落ちて迷惑をかけることも、登るのが遅くて遅れさせてしまうことも、避けたい。彼が足を滑らせてもいいよう、しっかり踏ん張って、一歩ずつ登りたい。
人により、レースの種類は違う。どこまで突き詰めるかも、人それぞれだ。私たちのレースは、二人で協力して挑み、体を絞って、日々の生活にも気を使って、やっとスタートラインに立てるものだ。他のレースに出る人を見て、あの人はいいなとか、この人とは違うなと思っても、それは当たり前で、気にすることじゃない。
そういうわけで彼は、自分と同じストイックさを私にも求める。まぁ、選手時代はこんなこともしたっけなぁと思いながら、甘味だけは許してもらった。
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選手生命を絶たれた時は、自分の人生が全て否定されたような気分だった。全てが無駄で、何もかも意味がなく、それでいて他の生き方も知らず、どうしていいか分からなかった。
でも、その頃に培ったものがあったから、伴走者になれた。彼と生きることを決めたら、無駄だと思っていたことが、見事に全て活かせた。まるでこうなることが、最初から仕組まれていたかのように。この運命は、受け入れるべくして、受け入れたものだ。この選手ならきっと、最高の走りを見せてくれる。