彼と付き合い始めたのは、大学に入学してまだ間もない5月だった。
高校生のときから憧れていて、入学後すぐに入会したよさこいサークル。
その2個上の先輩だった。

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正直最初は、お互いにぜんぜん好きじゃなかったと思う。
学生特有の、「彼女がほしい人」と「彼氏がほしい人」が揃ったから、とりあえず付き合っちゃおう、という軽いノリ。
付き合い初めの頃は、ドキドキもキュンキュンもしなくて、勢いで付き合ってしまったことを後悔していた。

そんな私の気持ちが変わったのは、初めて彼の家に行った時。
中央線・吉祥寺駅から徒歩15分ほど歩いたところにある、お世辞にもきれいとは言えないアパートだった。
2階建てのアパートの2階。
人が一人通るので精一杯なくらい細くて、今にも崩れ落ちるんじゃないかと心配になる階段を登った先の、いちばん手前の部屋。
洗濯機置き場がドアの外にあるのが、昔のアパートならではだった。

「男の人の部屋だから、雑多な感じなんだろうな」と根拠のない偏見を持ちながら入った部屋は、アパートの外観からは考えられないくらい、きれいで、おしゃれで、落ち着ける空間だった。
私はその日、普段は大雑把で、おしゃれに無頓着そうに見える彼の、新たな一面を知った。

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その日から、彼と別れた大学3年生の冬まで、約2年半、ほぼ毎週のように吉祥寺に通った。
多い時は、週に2〜3日行くこともあった。
その日の講義が終わるのが遅い方の時間に合わせて、よさこいの自主練をしながら待ったり、そのまま泊まった日の翌日、相手の一限の時間に合わせて、眠い、眠い、と言いながら一緒に登校したり。
そんな、大学生の特権みたいな時間が、なにより幸せだった。

彼の住む部屋が好きになって、そんな空間を作る彼のことも、いつの間にか本気で好きになっていた。
ドキドキ、キュンキュンがあまりないというのは変わらなかったが、それはいつしか「とりあえず付き合った関係」から、深い愛情と居心地の良さで繋がる関係に変わった。

「吉祥寺」と聞くと、古着屋さんやカフェが多く、おしゃれなイメージをする人も多いと思う。
でも実は、駅から10分ほど離れると、下町のような、良い意味で「日常感」のある街だった。
SNSでも見たことがないような、知る人ぞ知るスパイスカレー屋さん、お金がなかった私たちを支えた近所のスーパー、ひーひー言いながらも定期的に通った蒙古タンメン中本(激辛ラーメン屋さん)、そして、行くと「ただいま」と言いたくなるくらい落ち着く、彼の部屋。

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今思うと、吉祥寺という街は、実家で両親と暮らす日々に息苦しさを感じていた私にとって、自分の家よりも、「帰る場所」だったのかもしれない。

良い意味で洗練されすぎていない、おしゃれなのにどこか雑多な街並み。
ぴかぴかの新しい駅ビルと、昔からある商店街が共存する日常感。
おしゃれなマダムも、カフェ巡りをしたい女子高生も、はしご酒をしたいサラリーマンも、まだ売れないシンガーソングライターも、そして、私も。
吉祥寺という街は、誰も拒まない街だった。
どんな人にも、居場所のある街だった。

彼とは、彼の就職を機にすれ違いが増えて、別れることになってしまったし、彼はもう引っ越して吉祥寺には住んでいない。
それでも、今もときどき、ふとあの街に行きたくなるときがある。
いや、帰りたくなる、が正しいかもしれない。どんな私も、受け入れてくれる場所に。
来る者拒まず、去る者追わずの街だから、きっと「久しぶりじゃん、おかえり」とでも言ってくれるんじゃないかと思う。
そんな想像をしていると、ふっと、あのスパイスカレー屋さんの匂いがした気がした。